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ポール・ポワレは20世紀初頭に、ファッション界で大変革を起こしたデザイナーであった。それまでファッションの世界では、高貴な女性向けの服作りは、女性だけで行っていた。それを男性デザイナーが担当して、世界モード界の頂点に立ったことは、当時としては考えられない画期的な事だった。そして、時代を超越した斬新なデザインの数々は、「近代ファッションの父」と呼ばれるに相応しい足跡を残した。また、オートクチュール・デザイナーとしてのポワレは、今日の高級ブランドに引き継がれるマーケティング手法を初めて実践し、ファッション・ビジネスの面でも歴史的に高い評価を得ている。また、ブテイックの片隅でアクセサリーの、小物を販売する手法もポワレが最初だった。1879年にパリで生まれたポワレは、父親が布地商人だった事もあり、若い時期から服飾関係に興味を持っていたと云われる。一時期、傘屋に勤めたことがあったらしいが、その後は、パリのファッション界で影響力を二分する、ジャック・ドゥーセと二代目シャルル・フレドリック・ウォルトのメゾンに入り、デザイナーとしての経験を積み上げた。このキャリアが、のちに持てる才能を開花させる、大きなきっかけになったと云われる。ジャック・ドゥーセの祖父は、高級ランジェリーとレースを販売するブテイックを営み、父は宮廷にレースを納める商人であった。1853年にパリで生まれ、幼少の頃から衣裳に興味を持つ環境で育った。1871年に祖父から引き継いだブテイックに、オートクチュール部門を開設して、クチュリエとしてのキャリアをスタートさせる。ドゥーセは印象派の画家を始め、18世紀の建築・装飾・彫刻などから影響を受け、芸術的なコレクションを展開した。ゴージャスで気品にあふれたデザインを好んで発表。そのコレクションは当時の上流階級や、舞台女優達の間で大人気となる。また、コレクションに見られるように、芸術に対する造詣が深く、後期印象派を始めとする美術品コレクターとしても名を残している。その後は、ドゥーセのメゾンで経験を積んだポワレやヴィオネなどが、ファッション史に残るデザイナーへと成長した。
ポワレは1903年に自らの名を冠したメゾン「ポール・ポワレ」を設立。1906年にハイ・ウェストのドレス「ローラ・モンテス」を発表する。上流階級の女性にとって必須アイテムだったコルセットを短くして、女性を窮屈さから解放。シルエットもゆったりとしたスタイルに仕上げた。これはファッション史上で最も画期的な提案の一つと云われている。1908年にはイラストレーターのポール・イリブ(既号87.母と娘のブランド)とのコラボレーションで、イラストを用いたファッション・カタログを書かせ、有力な顧客にのみに配布した。わずか10図ほどのシルエットを描いた小冊子であったが、「ポール・ポワレのドレス」と題された作品集は大きな反響を呼んだ。これは顧客にとっては、カタログとしての価値を持ったのと同時に、のちにファッション誌などのマスメディアが、イラストや写真を掲載し、ファッションの流行を作りだすきっかけとなった。 1911年には、動きやすさを追求してデザインした「キュロット・スカート」を発表。続いて「ランプシェード型チュニック」「ポップル・スカート」など、次々とファッション業界に革命をもたらした。また、オートクチュールのメゾンとして、初めて香水「ロジーヌ」を発表。この頃はアールデコ期(1910年頃から1930頃にかけて、パリを中心として栄えた装飾美術)と云われ、女性のファッションが大きく変貌した時期であった。ポワレはファッションを、ビジネスの面からも近代化を提唱した。それは言い換えると、通常よりも安い価格で取り扱うことで、より多くの顧客が買うことができるシステム作りを試みたのである。世界一高級なウォルトのメゾンで、より広い顧客を対象とした商品展開を訴え、これが原因でウォルトと対立することになった。因みに、安い価格とは云っても、現代の安いという感覚とは次元が違うのは論を待たない。初代シャルル・フレドリック・ウォルトは、王室という絶対的な威信ある顧客を多く持ち、その存在の元で価格をつり上げ、イメージを意のままに高めるビジネス・モデルだった。ポワレのプロモーションも当初は、パリにおいてはナポレオン三世妃が重要な顧客となっており、ウィーンにおいてもオーストリア皇太子妃による後押しに見られるように、王室のバックアップが威厳を保つと同時に、顧客獲得にも大きな成果をあげていた。米国におけるプロモーションでは、ファッション・ショーの開催だけでなく、ステージで衣装を創るという挑戦までした。カラフルなビロードの布地をテーブルに広げ、居並ぶ聴衆の一婦人にモデルになってくれるよう協力を依頼。婦人の身体に布を置いていく創作の一部を、聴衆に見せることまでやった。これこそオートクチュール・デザイナーにしかできない画期的なプロモーションであり、顧客底辺の拡大を目指したものであった。しかし、ニューヨークでは百貨店の販売する、コピー商品の余りの多さに激怒し、結局は米国という巨大市場で、ビジネスが花開くことはなかったと云われる。ポアレはインド・中東・中国・東欧などの服飾要素、西洋絵画や古典的ファッションまで取り入れたデザインを展開。東洋のファッションであるターバンや「孔子コート」。それに裾広がりのチュニック「ソルベ」などが代表的な例である。1970年代のケンゾーや最近のジョン・ガリアーノ、アレキサンダー・マックイーンが、エスニックなど世界中の文化的要素を、取り入れたファッションを展開しているが、ポワレは表現の方法に違いがあるにせよ、すでに1910年代に取り入れていた。
パリのファション界ではパリの高級衣装店組合(通称 サンディカ)の、組合員になっているメゾンで作られる特別注文の、高級仕立て服のみをオートクチュールと云う。「サンディカ」は1868年に初代シャルル・フレドリック・ウォルトによって創立され、パリオートクチュール・コレクションやパリプレタポルテ・コレクションを主催し、服飾関係の専門学校も開設している。設立当初は同業者組合として発足したが、組合規約が無かったため組合員数も多くなり、安仕立ての衣装を売る組合員店が多くなってしまった。1911年にポワレ達が中心となって、サンディカを再発足させた。オートクチュールと銘打つための厳格な規約を定め、その規約に沿ったクチュリエのみを、正式メンバーとすることにした。これによりサンディカも、オートクチュール自体にも付加価値がつけられた。それ以降はファション界の最高峰として君臨していく事になる。組合規約の条件を満たして経営されている衣装店を「メゾン」と呼び、現在は 23のメゾンがある。メゾンでオートクチュールのデザイナーであり、デザイン・テーマの決定から裁断・ 縫製まで全てを統括し、企画を製品化する機能と権限を持つ総責任者を「クチュリエ」という。女性の場合は「クチュリエール」と云う。近代的ファッションの基礎は、初代シャルル・フレドリック・ウォルト、ポール・ポワレ、それにココ・シャネル(既号261.アトリエ開設100年のブーム)の3名によって形成されたというのが、現在の定説となっている。
米国の既製服産業は1820年代から成長し始めたと云われる。いち早く英国から取り入れた上流階級が着るファッションもあったが、既製服の源流となっていたファッションは、奴隷を含む労働者が着る仕事着や、軍人が着る軍服の既製服だったと云われる。1870年代以降になると、米国で成長する大手小売業は、低価格と低マージンで回転率の高いビジネスを目指していた。この流れに乗って既製服市場も、急速に拡大していった。しかし、これはオートクチュール・デザイナーにとって、考えられないビジネスであった。何故なら服の「型」こそが、デザイナーの独創そのものだからである。1900年代初頭に労働者の月収は100フラン程度で、デザイナーの月収は6万フランもあったと云われる。顧客を満足させる独創性に対する対価で、ファッションを複製するという常識はなかった。1913年にポワレは五番街のクチュールの要請を受けて、初めてニューヨークを訪れて、主要な百貨店を総て視察したという。ある店で婦人物の美しい帽子を裏返してみると、そこには「Poiret(ポワレ)」と自分の名前が書かれており、ポワレは激怒したという。しかし、パリの一流オートクチュール店も、巨大な米国市場を無視できない状況となり、極めて高額な取引だったと推測するが、「型」を販売するようになる。やがて、量産される既製服も品質が向上し、保守的なオートクチュール・メゾンは急速に業績悪化を招くことになる。ポワレが最初に破産したのが1924年だった。この年が歴史的にはポワレが築いたマーケティング手法が、大きく変化した転換点とされている。そしてこの年に、シャネルの香水「NO.5」(既号136.試作品番号No5)が、世界で揺るぎない地位を確立したと云われる。「CHANEL」ブランドは1930年代までに、女性ファッションの近代化を一気に進めた。第一次大戦後、ポワレはシャネルらの新鋭デザイナーの流れに乗り遅れ、メゾンは衰退していく。バレンシアガなど多くのデザイナー達から、尊敬を受けた近代ファッションの先駆者であったが、1944年にパリで死去する。2007年にメトロポリタン美術館で、バレンシアガのサポートのもとで回顧展が開かれた。日本でも今年1月31日から3月31日まで、東京都庭園美術館で「ポワレとフォルチャニー 20世紀モードを変えた男たち」が開催された。
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