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海苔の歴史は古く、702年2月6日に施行された大宝律令によると、海苔が租税として徴収されており、後年これに因んで2月6日は「海苔の日」となっている。710年に遷都された平城京には、海草類を売る「にぎめだな」や、海苔や昆布を佃煮のように加工したものを売る「もはだな」という市場があったという。「常陸国風土記」(713年)や「出雲風土記」(733年)などにも、海苔の記述が残されている。やがて、日本の食文化に海苔が定着するようになり、987年に書かれたと云われる「宇津保物語」には、甘海苔や紫海苔と云った具体的な名称が記述されている。江戸時代になると養殖技術が確立するようになる。詳しい記録は無いが江戸時代初期には、品川沖や大森沖の辺りで行われるようになったと伝えられている。元禄年間(1688〜1704年)には、海の中で海苔を付けるための枝である粗朶を立てる養殖が行われており、これを幕府が奨励していたことも確認されている。その約100年後の1787年に、不完全ながらも板海苔を使った海苔巻きが、考案された記録が残っている。やがて、東京湾で採れた海苔を和紙の製紙技術を用いて、紙のように薄く漉いて乾燥させた板海苔が完成する。海苔は世界中で採取され食されているが、養殖や板海苔に加工することを考案したのは日本だけである。板海苔は貯蔵のし易さ、食べ易さ、商いのし易さなど、どの観点から見ても素晴らしい発想であった。しかし、何時、何所で、誰が考案したかは定かではない。板海苔に対して乾燥させない海苔は生海苔と呼ばれる。
江戸の代表的な海苔に浅草海苔があるが、これも何時からそのように呼ばれたか判っていない。岡村金太郎著「浅草海苔」によると、長禄年間(1457〜1459年)の頃ではないかと推測されているが、定かな記録は残されていない。1800年代になって養殖された海苔が、浅草で板海苔に加工され、幕府御用商も浅草にあり、産業として繁栄していたことが記録に残っている。この頃から江戸の名物として、浅草海苔の名が全国に知れ渡った。1849年に初代・山本徳治郎が「山本海苔店」を日本橋室町一丁目に創業した。初代が生を受けた文化・文政の時代は、いわゆる大江戸文化の爛熟期であった。青年時代は江戸三代改革の一つ、天保の改革(1841年)があり、政治経済の大変革期であった。この頃は既に室町周辺には多くの人々が集まっており、海苔店としては後発であったが、商売をするには浅草にも近く好適地と考えた。山本海苔店が飛躍的な発展を遂げるのは、幕末から明治にかけて当主となった二代目・徳治郎の代であった。二代目は「お客様の最も必要とする商品を、最も廉価で販売せよ」と口癖のように云い、常に創案に励んでいた。製造面では画期的な考案をする。1869年に明治天皇が京都へ行幸の際、御所への土産物上納の御下命があった。この時、初めて海苔に味をつけた「味付け海苔」を創案。この新商品を契機に宮内省御用達となる。また、ブリキ缶が容器として使われるようになると、一般向けにも味付け海苔を販売し、これが大ヒット商品となった。販売面では、それまでは画一的に仕入れて販売していた海苔を、8種類に分類して販売した。食(自宅用)、棚(進物用)、焼(焼き海苔原料用)、味(味付け海苔用)、寿司(寿司業務用)、蕎麦(蕎麦業務用)、裏(地方御用)、大和(やまと煮・佃煮用)に区分けをした。これにより、客の求める海苔をスムースに提供できるようになり、廉価での販売も可能となった。客からは「買いやすい店」との評判が生まれ、多くの客を獲得するようになる。現在、同店が使用している包装用シールには「東海名産無双佳品」の文字が印刷されている。これは幕臣から明治天皇の侍従になった山岡鉄舟(既号292.木村屋の歴史と登場人物)の筆による字である。二代目は鉄舟が揮毫した書も与えられており、二人は千葉周作の道場「玄武館」で剣を学んだ友人であった。
大森(現・東京都大田区大森)の海苔養殖技術は、江戸時代後期に諏訪海苔商人を介して全国に伝わった。海苔の養殖は、海苔の生態が判らなかったため、生産が不安定で収入も一定せず、「運草」とも呼ばれていた。1949年に英国のドリュー女史が、海苔の糸状体を発見。それまで判らなかった海苔のライフサイクルが解明され、不確実な天然栽苗を実用化し、養殖が可能な地域の拡大につながった。現在では宮城県、千葉県、兵庫県の播磨灘沿岸、福岡県、佐賀県、熊本県の有明沿岸などが主産地となっている。生産地で云うと、北海道から九州まで22道府県で年間100億枚前後が生産されている。大森周辺の海苔造りは、埋め立て事業の計画などにより、1963年に歴史の幕を閉じた。大森では現在でも海苔を商う問屋が数多くあり、海苔造りの技術と歴史を後世に伝えようと、「大森海苔ふるさと館」が、2008年にオープン。京急大森町駅の東、徒歩12分にあり、平和の森公園の南側に隣接している「大森ふるさとの浜辺公園」内の、ふるさと広場にある。展示室は1階と2階にあり、1階では実物の海苔船が展示されているほか、乾海苔造りの作業部屋が再現されており、作業中の会話なども流されている。2階では大田区の海苔造りの歴史や海苔下駄など、当時使われていた道具の数々が展示されている。山本海苔店も1961年に大森東5丁目に山本海苔店研究所を設置。2年後には大森作業所も竣工したが、2000年には作業所を2003年には研究所を、各々神奈川県秦野工場へ転じた。品川沖で採れた品川海苔は江戸前海苔とも呼ばれ、高級品の産地として有名になった。江戸前寿司に使われたかは定かではないが、煎餅に海苔を巻いた「品川巻」は古くから名物になっていた。しかし、現在では海苔養殖は、大森と同様に現在は行われていない。餅などに海苔を巻いて使われる食品を「磯辺」と表現することが多い。これは磯辺、石辺、石部、磯部など、いずれも「いそべ」と呼び、産地名を表していた。また、海苔メーカーや海苔問屋が茶を扱うことが多い。これは両方とも湿気に弱い製品であることから、湿度管理のノウハウを応用できることに由来している。
山本海苔店三代目・徳治郎の時代は日露戦争に勝利するなど、日本経済発展期にあたっていた。1916年頃にはハワイや米国本土への輸出も積極的に進めていた。そのための「マルウメブランド」は、日本海苔最高品質の代名詞として用いられた。このマークは創業当初から使用しており、登録商標法が制定されると直ちに出願。梅の由来は海苔が梅と同じように、香りを尊び、梅の咲く寒中に最も良い海苔が採れることに因んでいる。「梅の花」「紅梅」「梅の友」など、梅の字を使った商品名が多いのもこのためである。大正時代になると、泉鏡花が「山本特製・海苔報條」と題した宣伝文を書いたが、その冒頭にある「旭の梅」という言葉にちなんで、同名の商品も発売された。後に、この商品は今上天皇が即位されたときの献上品となっている。奇しくも梅にも同名の種類があると云われる。四代目・徳治郎の時には、関東大震災に見舞われ、一大試練の時であった。しかし、余震さめやらぬ中、いち早く仮店舗を構える。震災を機に日本橋から築地に移転した新しい魚河岸に、本店以外に初めて出張所を設け、売上は飛躍的な拡大を続けることになる。第二次世界大戦後は、空襲による瓦礫を取り片付け、この時もいち早く復興へ着手。1946年には従来の個人経営から、会社組織に改め経営の近代化を図る。乾海苔の加工技術に新しい手法も取り入れ、品質の均一化を図ると共に、販売網の拡大に注力する。現在では主要6都市を中心に、全国で180余店の売店を持つようになった。当主は世襲名となっており、現在は六代目・徳治郎が社長を務める。本社所在地は現在でも創業地の室町一丁目である。昨年、山本海苔店は創業160周年を迎えている。
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