ブランドに学ぶ 儲けを生みだすビジネス・コラム

桃太郎のビジネスコラム 315

☆ 最高のマラモッティ☆

2010.08.04号  

 1951年、アキーレ・マラモッティ(Achille Maramotti)は北イタリアのレッジオ・エミリアで、婦人服の製造と卸や小売りをする会社を設立した。もともと仕立を生業とした家系に生まれ、それを元にビジネスをスタートさせた。当時は手作業で行われていた服作りに、工業的なプロセスを導入して成功。ブランド名は「最高」を意味する「Max」と、名字の一部の「Mara」を組み合わせて「MaxMara」とし、ブランドコンセプトは「仕事もプライベートも精力的に生き生きと行動し、女らしさも忘れない、クラッシックなフォルムとコーディネーションをベースにした都会の女性のためのコレクション」とした。同年に1着のコートと2着のジャケットを、ミラノコレクションで初めて発表し高い評価を得る。60年代には若者をターゲットにしたブランド「スポーツマックス」をスタート。特徴は女性のために、ベーシックなシルエットを基本としたデザインにある。70年代になるとキャリア・ウーマン向けに、イタリア製の良質な素材に縫製の細かさをベースにしたファッションで、ブランドの地位を確立。オーセンティック(正統派)なファッションは、現在も変わることはない。80年代にはいると、現在でもベストセラー商品となっているダブルのコート「101801」を発表。カシミア混ラグラン袖のコートで、高い人気を維持している。2009年、「未知のテリトリーを探る研究所」として位置づけた新コレクション「マックスマーラ・アトリエ」のラインを発表。現在はマックスマーラブランドを中心に活動しているが「マレッラ」「ペニーブラック」や、マラモッティの曾祖母の名を冠したという「マリナ・リナルディ」、若者向けラインの「MAX & Co.」など35以上のブランドを展開。マックスマーラでは「トッズ」(既号151.職人のこだわり)や「ベネトン」(既号202.庶民的価格で最高品質)のように、イタリア企業に多い家族経営を現在でも保ち、企業活動の詳細は明らかにしていない。2008年現在で世界90カ国以上に店舗を展開している。

 1990年にマックスマーラ・ジャパンを設立。「スポーツマックス」や「マックスマーラ・ウィークエンド」など28ラインを展開。94年には南青山に旗艦店をオープン。2000年A/Wよりマックスマーラ・ジャパンのブランドを取り揃えたアウトレットショップ「ディフォジオーネ・テッシレ」を日本国内でスタート。より多くの女性達へ、クォリティの高い服を、流行に左右されず、何時の時代にも合うデザイン、素材の良さと丁寧な縫製、流通管理も徹底させ「本当に欲しい人へ、最後まで責任を持って届ける」とのコンセプトで運営されている。イタリアではミラノやローマを始めとして11店舗、日本では8店舗を展開。2008年5月9日、ロサンゼルス発のモードプレスによると、女優ジニファー・グッドウィンがマックスマーラの「フェイス・オブ・ザ・フューチャー」を受賞したのを記念し、ウーマン・イン・フィルム社主催の昼食会が開かれた。このイベントは米ヴァニティ・フェア誌のエディターであるクリスタ・スミスと、ウーマン・イン・フィルム社のジェーン・フレミング社長が担当。会場には女優のローレン・グラハムやナビ・ラワット、テレビ作家のダイアン・イングリッシュなど、業界の著名人達が姿を見せていた。これにてジニファー・グッドウィンは文字通り、マックスマーラの「顔」となったのである。ジニファーはテネシー州メンフィス(既号167.60万人の「聖地」巡礼)の出身。2001年にテレビ「ロー & オーダー」に女優としてデビュー。2003年製作の映画「モナリザ・スマイル」で映画デビューして大ブレイク。この映画は、アメリカ初の女性大統領と期待されるヒラリー・クリントン(現・米国務長官)の、自伝「リビング・ストーリー」をベースにして作られた。ジニファーは1978年5月生まれの32歳。現在アメリカで最も旬の女優である。

 映画「モナリザ・スマイル」の主演は、2000年に「エリン・ブロコビッチ」でアカデミー最優秀女優賞とゴールデングローブ賞に輝いたジュリア・ロバーツ。リチャード・ギアとの「プリティ・ウーマン」、ヒュー・グラントとの「ノッティング・ヒルの恋人」など、ラブ・ストーリーの女王との呼び声が高い。既にベテランの域に達したジュリアの演技は喝采を受け高い評価を得る。舞台はヒラリー・クリントン自身が卒業したウェルズリー大学。セブン・シスターズと呼ばれるアメリカ女子大の中で、最も厳格で名声のある大学の一つで、同窓にはマダム・チャン(中華民国=台湾の初代総統・蒋介石夫人) 、ビル・クリントン政権で国連大使や初の女性国務長官を歴任したマデレーン・オルブライト、映画「ある愛の詩」でライアン・オニールと共演したアリ・マックグローなど錚々たる人物を多数輩出。映画はジニファー・グッドウィン、キルスティン・ダンスト、ジュリア・スタイルズ、マギー・ギレンホールなど、この作品のためにハリウッドから終結した若手実力派女優達が、女学生役として名を連ねた。彼女たちの素晴らしいアンサンブル演技は、自分の生き方を模索している世界中の女性達から、高い評価と圧倒的な支持を集める。『1953年秋。アメリカは戦争の狭間で暫しの平穏にあった。ニューイングランドのキャンパスに、自由な精神を備えたキャサリン・ワトソン(ジュリア・ロバーツ)という女性教師が、美術史の助教授として着任。彼女の夢は全米で最も優秀な女学生達に、自立する力と進歩的な教育を与えることだった。しかし、最初の授業の日、教科書を全て暗記してきた女学生達が、キャサリンを無視して一方的に授業を進め、最後にはキャサリンをボイコット。キャサリンの敵は反抗的な学生だけでなく、保守的な教師や卒業生達、それに態度が冷ややかな学生の親達にも及んだ。キャサリンは周囲の反発を感じながらも、信念を持って「女性も自分の考えで自立することの大切さ」を毅然として説いた。名門校の想像以上の保守的な側面は、マナー教師のナンシーによると、女学生達にとって栄誉なのはキャリア・ウーマンとしての肩書きではなく、エリート男子学生から贈られる婚約指輪だと云う。アカデミックな教育を受け、素晴らしい知性を身に付けても、現実には「良き相手の良い妻になる」ことだった。やがて、キャサリンの熱心さに、その生き方を理解する学生達が現れる。内気なコニー(ジニファー・グッドウィン)は、キャサリンが不安な自分に勇気を呉れる憧れの存在となっていた。ジョーン・ブランドウィン(ジュリア・スタイルズ)には法律家になりたい夢を持つ一方で、恋人からのプロポーズを待つ身に、今までとは違う指導をする教師であった。聡明だが挑発的で奔放な恋愛を繰り返すジゼル・レヴィ(マギー・ギレンホール)は、進歩的なキャサリンに自らの理想の女性像を見る。だが、キャサリンには決断が待っていた。キャサリンは恋人のポールが婚約指輪を持って来たが、彼の独善的態度に失望して別離を決意。教育への一途な熱意とは裏腹に、彼女の講義がウェルズリーの伝統にそぐわないとして、学長以下から叱責を受ける。一方、学生達にも岐路が迫って来た。不倫の恋を楽しむジゼルは人生の進路を選択しなければならない。上流階級出身で厳格な母の薦めで学生結婚したベティ(キルスティン・ダンスト)は、夫の愛が自分に無いことに気付く。自信喪失していたコニーは、勇気を振り絞ってボーイフレンドに愛を告白する。そうした中で、キャサリンに最後通告が言い渡された。大学に残りたいなら自由な講義はやめて、カリキュラム通りの授業をすること。さらに、新しく愛が芽生え始めたイタリア語講師ビルから「君は生徒の道と、自分の道のどちらを選ぶの?」と迫られる』ヒラリーが学んだ60年代のウェルズリー大学の学生達は、女性にも人生の選択肢があることを理解していた。しかし、その一世代前は、午前中はフランス文学と物理学の勉強をして、午後は将来の夫のために上司へのお茶の出し方を学んだと云われる。良き妻になるという現実と、自立への憧れ。二つの夢の狭間で悩む女学生。劇中で女学生がダ・ヴィンチの「モナリザ」が浮かべる微笑について問いかけた。「彼女は本当に幸せだったの ? 」
この問いかけこそが、この映画のテーマであった。

 マックスマーラは昨年のミラノに続き、今年の春はパリや大阪で新コンセプトの店を新装開店した。キーワードは「ニュー & オールド」。牽引するのは二代目会長ルイジ・マラモッティ。来年には創業60周年を控え、高級ラインの新設や旗艦店の新装改築に取り組んでいる。オートクチュールが主流だった時代に創設され、その後のプレタポルテ時代を先導してきた。現在の厳しい時代に高級ブランドが存続するには、伝統と研究開発、革新的な構想に忠実であることが重要。既製服でも糸や布造りの段階から徹底して吟味し、熟練した職人が試行錯誤を重ねてきた。手仕事を駆使したコートの新ラインは、それを示す声明とも云える。ラグジュワリーとは、必ずしも煌びやかな物だけでは無いことを伝え、最近は安さや早さばかりを競うが、マックスマーラはその傾向に一線を画すとしている。

 本稿を書き終わった後、共同電のニュースとして、クリントン夫妻の一人娘チェルシー(30歳)が、31日夜(日本時間1日朝)ニューヨーク州ラインベックにある豪邸を借り切って結婚式を挙げたと報道された。相手は長年のボーイフレンドで投資銀行勤務のマーク・ベズビンスキー(32歳)、両親はいずれも民主党の下院議員を務めた経歴があるという。招待客には元国務長官オルブライト、90年と93年にエミー賞を受賞した俳優のテッド・ダンソンらがいたという。チェルシーは母の書いた「リビング・ストーリー」を、当然読んでいることと思うが、どのような思いで読み、自らはどのような人生を選択したのか、気になるところである。


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