ユニクロを世界的なブランドに育て上げ、世界の業界で三位以内に入らないと生き残れなくなる。衣料品専門店のクローバル化は始まったばかり、いずれ東京でもニューヨークでも、パリでも同じ競争が行われるようになる。強い危機感を持ったユニクロは、海外の売上高を 07年8月期見込みの167億円から、3年後には1000億円にまで一気に増やす計画を立てている。M&A(企業の合併・買収)にも乗り出し、今月には米高級衣料専門店バーニーズ・ニューヨークの買収提案を発表した。バーニーズ社を傘下に持つジョーンズ・アパレル・グループに対し、9億ドル(約1100億円)を提示。実現すれば国内アパレルの海外企業買収では過去最大となる。全米で約500億円の売上高を誇り、34店舗を持つバーニーズの知名度を活用し、世界規模での展開を目指している。
世界では米ギャップやスェーデンのヘネス&モーリッツ、スペインのザラなど有力な製造小売り(SAP)は一兆円から二兆円の売上規模を誇る。巨大ライバルを相手にしても怯むことなくファースト・リテイリングの柳井正会長兼社長は「製造業が強いという日本のイメージ通り、品質には自信がある。ユニクロブランドの認知度を高めれば、成長が見込める」と強気な展開を語っている。今秋からは広告・宣伝の手法や、店舗のデザイン、ウェッブサイトの仕様などを世界共通にする予定である。
世界ブランドのイメージをアピールする戦略を立てると共に、世界の主要都市には旗艦店の出店を急ぐ考えである。 国内では銀座店を始め、大型店を7店舗に拡大。昨年 11月にニューヨークに世界旗艦店を出店し、12月には上海にもアジア旗艦店を出店し世界進出を加速。今秋も英国子会社を通じてロンドン中心部に大型店を出店する。現在11店舗ある英国既存店に比べて2倍以上の規模で展開する。
かつてフリース素材でブームを巻き起こした時のように、新たな機能や革新的な素材で顧客を引きつけることを目指し、「結局いいものは世界どこでも売れるんです」と自信を示す。ファースト・リテイリングの柳井会長兼社長は1949年2月生まれの団塊世代である。
この年の3月に山口県宇部市で父親が「メンズショップ小郡商事」を個人営業として開業し、
63年5月に株式会社に組織変更した。柳井会長兼社長は71年に早稲田大学を卒業してジャスコに入社、翌年に小郡商事に入社する。84年6月に広島市中区で「ユニーク・クロージング・ウェアハウス」(略称ユニ・クロ)一号店を開店し、9月に社長に就任する。
当初の略称は「UNI−CLO」であったが、88年に香港に現地法人を設立する際に、会社の登記書類に「UNI−QLO」と間違えてしまい、そのまま登記してしまったことで、英文綴りを「UNI−QLO」に変更し、商標に採用されたという。
91年9月に株式会社ファースト・リテイリングに社名を変更し、同社がユニクロを展開していた。05年11月に衣料品の製造・小売りに関する営業を会社分割(吸収分割)により、完全子会社でゴルフ練習場を運営していた株式会社サンロードに継承させ、その日に株式会社ユニクロに社名変更した。現在のファースト・リテイリング社は持ち株会社となっている。資本金102億7395万円、連結売上高4488億円(06年8月期)で、柳井会長兼社長が26.68%を有する筆頭株主となっている。ユニクロではCSR活動(企業の社会的責任)にも注力しており、02年のソルトレーク・オリンピックや、04年のアテネ・オリンピックの、開会式や移動時着用の日本代表公式ユニホームの提供を行っている。
身体・知的障害者の雇用にも積極的に取り組んでいる。障害者雇用促進法で定める民間企業の法廷雇用率1.8%を大きく上回っている。06年に厚生労働省が行った調査で、従業員 5000人以上の企業ではトップの7.2%と高率である。因みに2位は日本マクドナルドの 2.94%である。障害者の業務はバックヤードでの、商品チェックや閉店後の店内清掃などに従事しており、来店客には気が付かない場合が多い。聴覚や肢体が不自由な人も、健常者に混じって勤務する人達も多数いるという。
ビジネスではユニクロを世界ブランドに構築すべく、激戦の荒海に乗り出してはいるが、国内では弱者にも手をさしのべる、隠れたブランドを構築していた。小郡商事の頃は、ナショナル・ブランド衣料品の小売店であった。一世を風靡していた石津謙介が率いるVANジャケット(既号55.みゆき族復活)なども扱っていた。アメリカンスタイルの倉庫風建物内に、クラッシックな映画ポスターや、有名スターのポートレートを、展示した店舗を全国に展開するようになった。
米GAPなどを視察し、カジュアル・ウェアー専門チェーン店の展開を、具現化していくようになるとともに、中国で優良な工場を持ち、低価格で商品を調達するビジネス・モデルを構築していた。このスタイルはメジャー・ブランドになる前から、業界筋の間では注目を浴びていた。94年にはユニクロ直営店が、100店舗を超えるボリュームに達していた。
90年代半ばからは生産基地である中国の工場管理を強化し、SPA化(既号76.業態転換)を進めた。1900円のフリースや、2800円のジーンズなどが、バブル崩壊後の不況時に、価格破壊の象徴として爆発的にヒットした。
しかし、フリースの販売数量は3650万枚にも達したと云われ、あまり大量に売れて着ている人が多いため、ユニクロで買ったことが誰にでも判ってしまう「ユニバレ」という現象が広がり、「ダサイ」「恥ずかしい」と敬遠されるようになった。この現象が一時業績低迷の一因となったが、専門家の間でも価格に対する品質の評価は高く、衣料品としての完成度は非常に優れたものがあった。
過去に柳井会長兼社長が、多くの国民に品質の良い物を安く提供したいとの意図から「ユニクロは国民服」と発言したことが、ファッション性を軽視していると受け取られた。
02年4月にデザイン機能強化のため、ユニクロデザイン研究室を港区・青山に設立。イッセイミヤケの社長を務めたこともある多田裕氏を招聘した。06年からはブランド広報としてのCM戦略も展開している。昨年8月からは世界各国のデザイナーらと、「デザイナーズ・インビテーション・プロジェクト」を企画し、通常なら数万円もするようなファッション性の高い商品を、1万円以下の低価格で販売している。ユニセックスや手頃な価格帯の路線は、ある程度継続するものの、次なる成長のための戦略を模索している。
|