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ピエール・カルダンはフランスのファッション・デザイナーで、前衛的なスタイルのブランドを立ち上げ、1960年代から70年代にかけて一世を風靡した。22年にイタリア・ベネチアで生まれ、元の名はピエールではなく、ピエトロであった。17歳の時から仕立屋で働き始めた。45年に第二次大戦が終わり、フランスがドイツから解放されたのを機に、パリに移り建築家を目指した。一年という短い期間だったが、パキャン、スキャパレリ、ルロン、それにバルマンなどのブティックで下働きをして生活していた。そのなかで様々な人脈ができたことが、ファッションの世界へ進むきっかけとなった。46年にはクリスチャン・ディオール(既号63.ディオールのシルエット)が独立して、オートクチュール・メゾンを立ち上げたときに、メゾンの一員として参加。翌年春にディオールが最初に発表したコレクションが「ニュー・ルック」として絶賛を浴びたとき、カルダンはテーラード仕立ての主任として活躍していた。50年にアトリエを持つようになり、53年にはオートクチュール・ブランドを立ち上げ、アバンギャルドなデザインで注目を集める。翌年には「バブル・ドレス」を発表。ファッションの世界に身を投じてから、潜在的な能力を徐々に発揮するようになった。57年に大胆なドレーピングの「投げ縄ライン」で大ブレークするようになる。カルダンは「布地の魔術師」と云われ、前衛的なスタイルは女性の持つ柔らかさや、繊細なラインを無視して、宇宙時代的な幾何学模様や形を好んで採用していった。ユニセックスなスタイルにまで進み、実験的なデザインに挑戦することもあり、実用的ではないものも多かった。
カルダンはデザイナーとしてだけでなく、ビジネスとしての幅広い活動が次第に多くなっていった。59年にフランスの大手百貨店プランタン向けに、プレタポルテのコレクションを発表。62年にはプランタンに「カルダン・コーナー」を設置し、オートクチュール作品のコピーを、安価なプレタポルテとして売り出した。オートクチュールが主流だった時代に、初めて百貨店でプレタポルテを販売する手法を確立。新しい時代の流れを作った。63年には紳士既製服業者ブリルの要請で「ジュニア・コレクション」を発表。これも紳士服のプレタポルテ・コレクションの先駆けとなり、紳士服販売に革命をもたらした。71年、自らの作品を発表するとともに、その他の芸術を発表する場として、パリに「エスパス・カルダン」を開設。81年にはレストラン「マキシム」のオーナーとなり、ロンドン・ニューヨーク・北京に支店を開業するなど、異業種においても才能も発揮している。カルダンはオートクチュールやプレタポルテの世界的ブランドとして活躍しているが、特筆すべきは何と云っても、ライセンス・ビジネスの先駆者であったことである。デザイナーが自国及び海外の企業に対して、ブランド名やデザインの使用権、生産販売権を契約に因って許諾するビジネスである。ファッション関係は勿論、カーテン・シーツ・タオル・スリッパから自転車に及ぶまで、ありとあらゆる商品に「ピエール・カルダン」のロゴを付けることを許諾し、巨万の富を築き上げフレンチドリームを実現した。その後、多くのデサイナーがライセンス・ビジネスに乗り出すようになった。カルダンはオートクチュール・デザイナーのなかでは、初めて日本のマーケットに注目し、59年にはオートクチュールの有望市場として来日。97年より三井物産が経営の中核となっている「ピエール・カルダン・ジャパン」が、国内のライセンス事業を統括してるい。
カルダンは映画衣裳デザインの分野では、ジパンシー(既号116.スクリーンの妖精と衣裳)やアルマーニ(既号131.モードの帝王)のように、多くはないが数本の映画を担当した。その一つである「黒衣の花嫁」は、フランス・ヌーベルバーグ派の一人で、ヒッチコッキアンとしても知られ、且つ現在アメリカのヒットメーカー、スティーブン・スピルバーグが憧れていたフランソワ・トリュフォーが監督した作品であった。68年のデザイナーとして絶頂へ上り詰めていた頃、当時の恋人であったジャンヌ・モローが主演したのが縁で引き受けたと云われる。ストーリーはシンプルで、花嫁が幼なじみの男性と晴れて結婚式を挙げる日に、花婿が教会から出てきた何者かに撃たれて死んでしまう。絶望する花嫁であったが、凶行に関わった5人の男達を探し出し、次々と復習をしていく映画である。花嫁を演じるジャンヌ・モローは、当時40歳で決して若いとは言えない年齢であった。しかし、その冷めた美貌で男達に近づき、沈着冷静に復習を成し遂げていく様は、凄みさえ感じる。53年に26歳でジャン・ギャバンと共演した「現金に手を出すな」、57年のルイ・マル監督「死刑台のエレベータ」、61年の「突然炎のごとく」、62年の「審判」、64年の「大列車作戦」等の作品で、彼女は外見の美しさだけでなく、個性の強い演技が評価された。反保守的傾向の強かったヌーベルバーグ派の監督には好んで起用されていた。60年の「雨のしのび逢い」でカンヌ国際映画祭主演女優賞。92年公開の「愛人/ラマン」ではナレーションも担当。2000年のベルリン国際映画祭で功労賞を受賞する。オーソン・ウェルズに「世界で最も偉大な女優」と評された。28年1月23日生まれ。
カルダンのライセンス事業の拡大は、結果としてラグジュワリー・ブランドとしてのイメージを損ない、ブランド・バリューの低下を招くことになってしまった。しかし、昨年6月に刊行された「ピエール・カルダン ファッション・アート・グルメをビジネスにした男」(副題 ファッション界の革命児 ピエール・カルダンの本格的伝記)のなかで、カルダン自身は「いわしの缶詰(マキシムのライセンス商品)が下品で、香水が上品などと誰が決めたんだ」と反論している。同書の中でカルダンは「20世紀のモードの歴史に名を残したデザイナー達は、装いを通じて女性の自由解放に貢献した。ポール・ポワレはコルセットを取り払って、女性の肉体を解放した。シャネルは女性に初めてパンツを穿かせ、短いプリーツ・スカートも着せた」。そして「私自身が何をもたらすかを、考えねばなりませんでした」。カルダンは、その答えとしてオートクチュールが主流のファッション界に、プレタポルテという概念を持ち込み、販売の媒体として百貨店を活用し、紳士服にも婦人服同様のコレクションを展開、ライセンス供与が莫大な利益をもたらすビジネスになることを知らしめた。そしてさらに「私の意図していたことは一握りの人々が相手ではなく、何百万人もの人々のスタイルを変えることだったのです。特にファッションが社会的に認知されていない国々では必要なのです。それに何故、同じ女性でいながら、大金持ちでないという理由だけで、エレガントになる権利を奪われてしまうのですか?」何処の国においてもファッションを楽しみ、ブランドを誇示し、流行をリードするのは、一部の特権階級であった。カルダンは「本来、流行とは大衆の中から生まれるべきものである」との考えから、装う事の楽しみを特権階級から、一般大衆の手へ取り戻すことが、自らのライフ・ワークと考えていたようだ。カルダンの一般大衆側に立ったポリシーは、91年にユネスコ親善大使として、チェリノブイリ被害者救済と、その他の人道的プログラムにも尽力する姿にも表れている。デザイナーとしての活動、人道的活動、ビジネスマンとしての活動に対し、各国より数々の勲章等を受勲している。日本では勲二等瑞宝章を授与されている。カルダンは「ファッション・ブランドの大衆化」が、世界的に認知されたことを確信したかのように、ブランド・バリュー復権の活動を活発化し、許諾するライセンスも縮小。ファッションの巨大マーケットでもある中国では、「ピエール・カルダン熱烈歓迎」の状態が続いている。一昨年の10月には北京で、07年S/Sコレクションを発表。中国ファッション協会より賞状を授与された。昨年の10月にも敦煌の砂丘で08年S/Sコレクションを発表。かつてヨーロッパに絹を運んだシルクロードに設置されたランウェイを、モデル達が悠々と闊歩した。今年86歳になるカルダンは、今なお現役デザイナーとして、衰えを知らない活動を続けている。間もなくブランド・バリューが完全復活する日がくる。
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