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エマニュエル・ウンガロは1933年に、フランス南部のブーシュ=ローヌ県エクス・アン・プロヴァンスに生まれる。両親はイタリア人で、ムッソリーニ政権を避けて、フランスに渡ったと云われている。父親はフランスで小さな紳士服のテーラーを営んでいた。ウンガロは幼い頃から父親の仕事を見て、スーツの仕立てを身につけたという。
1957年、23歳の時にパリのモンパルナスに渡り、翌年には知己を得ていたアンドレ・クレージュ(既号224.パリ・コレのミニルック)の推薦により、クリストバル・バレンシアガ(既号270.クチュールの建築家)の下で、アシスタントとして働くようになる。後にウンガロは「バレンシアガとの出会いは、まさに衝撃的で、厳格さ、強さ、偉大さ、さらに英知との出会いだった」と語っている。そして「私にとってバレンシアガは教師中の教師」と仰ぎ、その後の活動に大きな影響を受けた。1965年に独立。当時の恋人であったファブリックアーテイストのソニア・ナップとともに会社を設立。自らの名を冠したブランド「エマニュエル・ウンガロ」をスタートさせた。そしてこの年、初めてパリ・オートクチュール・コレクションに参加。
1990年にエマニュエル・ウンガロは50歳にしてラウラ・ファファーニと結婚。ラウラの父親はイタリア国営テレビ局の会長だったことから、私生活面でも大きな話題となる。
1996年にサルバトーレ・フェラガモ社(既号182.伝説の靴職人)にブランドを売却。このブランド売却は、ウンガロの衣裳をフェラガモの強みとする国際的な販売網や、マーケティングと融合させたもので、双方にとって効果的で、且つ友好的なビジネスだった。
2002年S/Sからウンガロのデザインチームで活躍していたジャンバティスタ・ヴァリがデザイナーに就任。ヴァリはウンガロの美しさに、若さとエネルギーを融合させて活躍。
2006年A/Wからヴァリの独立に伴い、ピーター・デュンダスがデザイナーに就任した。ピーターが3シーズン努めた後、2008年にはエステバン・コルタザルが、レディース・コレクションのチーフデザイナーに就任。エステバンはコロンビアのボゴタ生まれの、若干23歳の新鋭デザイナー。現在はクリエイティブ・ディレクターに就任している。エステバンはニューヨークを拠点に活動していた時期があり、2003年にはシグネチャー・ブランド(シグネチャーは署名やサインの意で、有名人の名前を冠した商品)を発表している。
メンズウェアーラインは、2008年よりフランチェスコ・スマルトのデザイナーを経た、フランク・ボクレが就任している。
ピーター・デュンダスはノルウェー出身のアメリカ人。パーソンズを卒業後、フランスを代表する王立(後に国立)の劇団コメディー・フランセーズで活動。その後はジャンポール・ゴルチェ(既号265.超売れっ子デザイナー)、クリスチャン・ラクロワ、ロベルト・カバリなどでキャリアを積んだ。カバリでは2002年から2005年までチーフデザイナーを努める。その後、ウンガロのデザイナーを努めて2007年に退任。フランスのレビオンにてファーのコレクションを担当していたが、2008年よりエミリオ・プッチ(既号206.独自のテキスタイル)のアーティステック・ディレクターに就任している。プッチではウェアーラインやアクセサリーラインを担当。世界にある約50の店舗開発などにも携わっている。ピーターが卒業したパーソンズ(パーソンズ・ニュー・スクール・フォー・デザイン)は、1896年に創立された芸術系の大学で、ニューヨーク・マンハッタンのグリニッチにある。卒業生にはグッチ(既号127.ブランド商品の元祖)を立て直した手腕と、グッチ傘下のイヴ・サンローラン(既号176.C・ドヌーブをイメージ)のプレタポルテを担当して高い評価を得ているトム・フォードがいる。アレキサンダー・ワンやナルシソ・ロドリゲス。ルイ・ヴィトン(既号16.LVMHの5バリュー)で活躍するマーク・ジェイコブス。トッズ(既号151.職人のこだわり)で活躍するデレク・ラム。中退ではあったがダナ・キャラン(既号215.ダナ・キャランと日本資本)。日本人ではミントデザインズで活躍している勝井北斗がおり、ファッション界に多くの人材を輩出している。
一昨年の9月、ウンガロは新しいサービスを試みた。伊勢丹・新宿店とのコラボレーションで、パリの高級注文服オートクチュールが、国内に居ながらにして手に入るサービスである。通常は渡仏して行う仮縫いを省略して納期を短縮、価格も抑えたセミクチュールとして売り出した。オートクチュールは本来、パリの高級衣装店組合(サンディカ)に所属するブランドが、個別の注文に応じて作る衣服である。セミクチュールはデザインを、日本人のニーズに合わせて伊勢丹が原案を提示。これを元にウンガロが日本人のプロポーションに合わせて全体を製作し、サイズの調整は伊勢丹が担当する。これによって通常は3回から4回の仮縫いのため、パリに足を運ぶなどして仕上がるまでに、少なくても4ヶ月くらい掛かるところを、国内に居ながら一ヶ月半くらいで手にすることができる。
価格は数千万円もするものもあるオートクチュールに対し、セミクチュールは150万円から300万円程度に抑えた。ブランド名を使ってライセンス契約で作るのではなく、あくまで本場の職人技に拘りながら、日本人に合わせてカスタマイズしたものだ。ウンガロ・ジャパンによると、女優の大地真央が2着のオーダーを入れたほか、富裕層の夫人達から多くの引き合いが入ったという。
ウンガロの日本におけるビジネスは、1970年に名古屋・中区に本拠を置くエリットと、ライセンス契約を締結し、バッグ・財布等の展開を開始。2005-2006年A/Wからは東京・千代田区に本拠を持つ三喜商事が、レディースウェアの国内総輸入販売元となる。それまで輸入販売を手掛けていたウンガロ・ジャパンは、広報宣伝を担当するようになった。
2007-2008年A/Wからエリットが「ユーバイウンガロ(U by Ungaro)」を展開。2009年S/Sより伊藤忠商事とライセンス契約を締結し、日本市場でのブラックフォーマルラインである「ウンガロ・ソワ」を展開。ブランドターゲットは30歳代から40歳代を中心とした幅広い年齢層を想定している。日本市場では人気が低迷した時期もあったが、ブランドイメージも復活。再び上昇気流に乗ったようである。
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