エミリオ・プッチはシルク素材に独自の、幾何学模様をプリントしたテキスタイルを生みだした。抽象的表現をした「プッチ柄」と云われる斬新なイメージは、多くの女性達に驚きと共に迎えられる。このようなプリントの柄物は、一般的には派手で軽薄に見える場合が多いのだが、プッチの作風には気品と優雅な雰囲気が漂い、これが好評を博して熱烈な女性ファンを獲得するようになった。
プッチは1914年にイタリア・ナポリで貴族の家に生まれる。高校時代の34年から35年にかけて、スキーのオリンピック・ナショナルチームに所属した経歴をもつ。ミラノ大学を卒業後に渡米し、ジョージア州・アセンズの大学に入った。その後は37年にオレゴン州ポートランドリー・カレッジで、社会学を学び39年に帰国。さらに帰国後もフィレンツェの大学で政治学を学び、41年に博士号を取得する。第二次世界大戦中はイタリア空軍でパイロットとして従軍。その後は政治家となり、10年間イタリア議会に在籍した。
47年にスイスのツェルマットで、自分がデザインしたスキーウェアーを着ているところを、雑誌「ハーパース・バザー」のカメラマンに撮影される。その写真が同誌に掲載されて評判となり、同雑誌のファッション・エディッター、ダイアナ・ヴリーランドが女性用冬服のデザインを依頼する。ニューヨークで売り出されたウェアーは、大ヒットとなりスキーウェアーのデザイナーとして、一躍脚光を浴びるようになった。
これがきっかけとなり鮮明なプリントで、大胆な図柄や色使いが特徴的なプッチ柄は、さまざまなウェアーにデザインされた。先細パンツやカプリパンツ、リゾートドレスからショーツまで次々と発表。やがてアメリカを中心とした各国の、セレブ達の間で人気となり、マリリン・モンローやエリザベス・テーラー、元ケネディ大統領夫人ジャクリーヌなどがファンとなる。その後はウェアーだけでなく、カーペット等のインテリアにまで、幅広くデザインを手掛けるようになった。独自のテキスタイルから、「プリントの王子」と呼ばれたプッチは、ファッションだけに留まらず、71年にはアポロ15号使節団のロゴを手がける。70年代にはフォードが高級車リンカーンの内装を、ファッション・デザイナーにデザインさせる「デザイナー・シリーズ」を発表。カルティエ(既号67.ジュエラーの王様)やグッチ(既号127.ブランド商品の元祖)、ビル・ブラスなどとともに、最上級グレード車の内装を手がけた。現在は担当デザイナーこそ存在しないが、その名称はタウンカーの最上級グレードとして今日も受け継がれている。64年に米・ブラニフ航空の、客室乗務員の制服をデザイン。70年には大阪万博イタリア館のコンパニオンの制服をデザインするなど、幅広い活動が認められ、90年にCFDA(The Council Of Fashion Designers Of America)より表彰される。
92年にエミリオが亡くなった後、ブランドのデザインは、娘ラウドミア・プッチに引き継がれたが、97年にミラノにある会社に経営権を譲渡。00年にはLVMHグループ(既号203.熟成を待つ一億本)の傘下に入る。
01年A/Wよりジュリオ・エスバーダ、03年S/Sよりクリスチャン・ラクロワがアーティステック・ディレクターを努める。ラウドミアは、現在イメージ・ディレクターを努めている。エミリオ・プッチ・ブランド躍進のきっかけとなったスキーウェアーは、04年A/Wからロシニョールとの業務提携により再開している。06年A/Wよりクリエイティブ・ディレクターにマシュー・ウィリアムソンが抜擢されている。ウィリアムソンは、71年にイギリスのウィンチェスター生まれの37歳。98年にはエル・スタイル・アワードの最優秀新人賞を受賞。彼の特徴は大胆な色使いにあり、「色使いの巨匠」との評価がある。イタリア中部トスカーナ州プラトは、グッチやプラダ(既号205.ブランドの迷走と再起)などの高級ブランドの製造拠点として知られている。プラトは中世から紡績や織物で栄えてきた街だが、現在ではヨーロッパで最も中国化した街と云われる。中国やインドからの安価な繊維製品が大量に流入し、その影響で地元企業は競争力を失い、廃業に追い込まれる企業が続出。さらに、廃工場となった建物に、続々と中国移民が住むようになった。
89年には中国移民は38人であったが、現在では人口18万5000人のうち、8人に1人の割合となる2万3000人に増えている。統計に載らない不法滞在者を含めると3万5000人が暮らす。その大多数が縫製工場の労働者とその家族である。00年には約7万人の地元市民が繊維産業に就労していたが、現在では4万2000人に減少。一方では94年には中国移民による縫製工場は800軒だったのが、現在では3000軒に増加し、プラトの繊維産業は地元民と、中国移民の入れ替わりが進行している。生産量においても、総生産量の20%を占めるようになり、地場産業を中国移民が支える構図にもなっている。
中国移民の手による製品が、イタリア製として出荷されている現実に、反発を覚える声も次第に大きくなっている。地元民にとっては中国人を、敵視することは無いにしても、地元民が造った製品と中国移民が造った製品が、同じ「MADE IN ITALY」として出荷され、
諸外国から同一視されることに、イタリア・ファッション界の一翼を担ってきたプライドが許さない。地元67社のグループは「100%イタリア製」を謳い、独自化を図っている。
プラトの街における移民系企業の躍進が、さまざまな問題を引き起こしている現実もある。
中央銀行であるイタリア銀行の推計によると、07年の上半期におけるプラトから中国への送金額は、日本円にして1240億円にも達し、地方都市から中国への送金額としては、ヨーロッパ最大となっている。送金額の中には本来納税されるべき分も含まれているとして、当局の監視は強まっており、昨年は移民系企業130社が脱税容疑で摘発されたと云う。
07年11月にはプラト周辺で、フェンディ(既号163.3世代で育てた世界ブランド)やルイ・ヴィトン、グッチなど有名ブランドの、偽造ラベルが縫いつけられた衣類が、約31万点押収され、偽ブランド品も後を絶たない。地元民からすると、中国移民はプラトにとって、欠かせない存在であることは認めつつも、プラトが中国の一地方と化してしまう危機感も強い。04年11月26日、東京・銀座晴海通りに「エミリオ・プッチ銀座店」がオープンした。エミリオ・プッチの店舗としては世界で18番目、日本初となる路面店である。パリやロンドンとほぼ同一規模で、建築家ティツアーノ・ヴダフェリエと、デザイナーのレナ・パッソアによって、世界共通のコンセプトで内装が施工された。
00 年にLVMHの傘下に入るまでのエミリオ・プッチは、イタリア企業特有の家族的経営に誇りを持ち、大富豪でもあったため、商業ベースで事業規模を拡大する方針はとらなかった。限られたバイヤー達が、フィレンツェにあるプッチの宮殿を訪ね、その場でファッションショーを見て、買い付けを行う方法をとっていた。LVMHの傘下になってからは、グループの方針もあり、世界規模で事業を拡大する方向に転換。ニコール・キッドマンやジェニファー・ロペスなど、新たなセレブ達のファンも獲得し、快進撃を続けている。
6月4日、エミリオ・プッチは、08年プレフォール・コレクションより、初のトラベルバッグシリーズの展開を発表した。トラベルバッグシリーズは、トロリーバッグ(¥170.100)、トートバッグ大(¥87.150)、トートバッグ中(¥72.450)、コスメティックケース(¥57.750)、パスポートケース(¥34.650)の4種5アイテムで展開する。幾何学的なモチーフと、流線が交じり合う新柄「コスモ」を使って機能的に仕上げている。防水加工した布地など、旅行者に対する配慮も行き届いている。通常展開される色は、黒×バイオレット・茶×オレンジ・グリーン×グレーだが、伊勢丹新宿店で11日から17日に行われたエキシビションでは、ブルーが限定販売された。
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