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2002年1月22日、イヴ・サンローラン(既号176.C・ドヌーブをイメージ)はパリでのオートクチュール・コレクションを最後に引退した。その後はモロッコの、マラケシュの家で殆どの時間を過ごしていた。この年の10月31日、パリのアヴェニューマルソーにあるアトリエをクローズ。イヴ・サンローランのオートクチュール・メゾンでは、彼以上の才能を持つ後継デザイナーを見つけることは、将来的にも不可能であるとして、歴史に幕を閉じたとしている。しかし、プレタポルテについては、グッチを立て直した手腕で高い評価を得ているトム・フォードが後継となり、2004年3月に「リヴ・ゴーシュ」がパリ・コレクションで発表された。2007年12月、ニコラ・サルコジ大統領からフランス芸術文化勲章(レジオン・ドヌール勲章)のオフィシェ級を叙勲される。2008年6月1日に癌のため71歳で逝去。6月5日にパリのサンロック教会で告別式が行われ、サルコジ大統領夫妻、ベルトラン・ドラノエ パリ市長、ファラ元イラン王妃、高田賢三など多くの著名人達が参列した。もちろんサンローランのミューズだったカトリーヌ・ドヌーブ(既号176.C・ドヌーブをイメージ)も姿をみせた。20世紀に最も活躍したスーパーデザイナーであったが、デザインだけではなく、その後のファッション界に画期的な影響力を及ぼした。生前に親交の深かったスーパーモデルのナオミ・キャンベルが明かした事実がある。「彼はファッションの王様だった」とコメント。続けて「イヴ、私は仏版ヴォーグ誌の表紙にはなれないわ。黒人の女の子は起用しないみたいなの」と話すと、サンローランは「判ったよ。僕にまかせておいて」と答えたという。後日、ナオミは黒人モデルでは初めて仏版ヴォーグ誌の表紙を飾っている。ナオミはさらに続けて「彼はプレタポルテを生み出し、初めてランウェイに有色人種を起用した。私のキャリアにおいて極めて重要な人物だった。初期の仕事を与えてくれたのも彼であった」と感謝の言葉を述べている。ナオミ以外にも初期の黒人スーパーモデルだったムーニァは、フランスのラジオ局のインタビューに対して「彼のおかげで肌の色に対する誇りを持つことができた」とコメントしている。アフリカ出身のダイヤ・グェイェもサンローランの協力によって国際的なキャリアをスタートさせた一人である。そして「彼は天才だった。世界全体にとつても大きな損失よ。兄というよりも父のようだったわ」と死を悼んだ。
6月も半ばを過ぎて梅雨入りの季節となったばかりだが、巷ではそろそろ秋のトレンドを先取りしたファッションが現れ始めた。今年の注目は1950年から1960年代の、銀幕の女優を思い起こされる優雅で神秘的なクラッシックスタイルである。クリスチャン・ディオール(既号63.ディオールのシルエット)が提唱したニュールックのAラインや、黒のサングラス等々である。シネモードは何度か復活してきたが、今年は改めて古き良き時代の美しさや装いを見つめ直し、楽しさや奥深さを甦らせようとのメッセージが聞こえてくる。想定する時代の設定は第二次世界大戦後の、切実な日々の中にも復興への期待と活力が満ち溢れていた時代である。現在は世界的にも経済が順調とは云えない時世で、当時の世相へのノスタルジアと、エネルギーを彷彿とさせるものがある。当時のファッションのスタイルを思い切り強調し、最新の素材に置き換えた提案が、多くのブランドから発表されている。さらに今秋の特徴はアメリカ映画で、セクシーさを強調したマリリン・モンロー(既号136.試作品番号No5)や、明るくキュートな可愛らしさを全面に出したオードリー・ヘップバーン(既号116.スクリーンの妖精と衣裳)のようなファッションとは違いを見せている。ヨーロッパ映画における神秘的なヒロインや、ファム・ファタル(妖婦) のイメージが色濃い。各ブランドがイメージしているのは、フランスの代表的な女優であるブリジッド・バルドーや、カトリーヌ・ドヌーブなどのようである。ドヌーブはサンローランにして「私は何時も彼女をイメージしてデザインをしていた」と言わしめた女優である。
『1957年11月、17歳のジェヌビエーブ(カトリーヌ・ドヌーブ)はシェルブールで、母と雨傘屋を経営していた。21歳の自動車整備工ギイとは恋人同士で、近くに叔母と住んでいたが、周囲は若すぎると結婚には反対していた。二人は互いに夢中で「子供ができたら女の子で、名前はフランソワーズにしたいわ」「雨傘屋は売ってしまいましょう」「そうしたらガソリンスタンドを買おう」と将来を語り合っていた。そんな幸せも束の間に、ギイに招集礼状が来た。二年間の義務兵役に発つことになり、二人は思いの限り求め合った。そしてギイの入営の日、ジェヌビエーブはシェルブールの駅まで見送った。翌年になり、ジェヌビエーブ親娘は雨傘屋が不況で、納税のために母の宝石を売りに行った。宝石商カサールは、その場で買い取ってくれた。それはカサールがジェヌビエーブに一目惚れしたからだった。しかし、ジェヌビエーブはギイとの愛の結晶を妊っている事を知る。ギイは「男の子であったらフランソワも良い考えだ」と手紙をくれたが、その手紙も次第に途絶えがちになってきた。カサールはジェヌビエーブに求愛し、その子供も一緒に育てたいと申し出る。ジェヌビエーブはカサールの優しさに絆され、結婚してパリに移住する決意をした。1959年の年が明け、ギイは負傷した足を引きずり帰郷。雨傘屋は持ち主が変わっており、ジェヌビエーブが他の男と結婚したと聞かされる。ギイは落胆のあまり荒れた生活となり、さらに不自由な足のため仕事も失敗続きで失職してしまう。そんな頃、育ての母である叔母が死亡。病に伏した叔母の世話をしていた従妹の、マドレーヌと葬儀を済ませた。居場所が無くなったマドレーヌが出て行こうとするのを、ギイが引き留め結婚を申し込む。ギイは叔母が残してくれた、幾ばくかの遺産でガソリンスタンドを買うことにした。数年が経った1963年の雪の夜。マドレーヌと息子フランソワがクリスマスの買い物に出て行った。ギイは幸せを感じながら、スタンドで一人働いていた。夕暮れ時になって、一台のベンツが入ってきた。運転席にはジェヌビエーブ、助手席にはフランソワーズがいた。給油に出てきたギイは、運転席の人物に気づいた。ジェヌビエーブは助手席の女の子を「あなたに似ているわ」と短い言葉を発し、それ以上の言葉は交わさなかった。今は互いに幸福なのだ。給油の終わったベンツは、スタンドを静かに走り去って行った』カトリーヌ・ドヌーブを世界の銀幕に送り出した秀作「シェルブールの雨傘」のあらすじである。1964年のカンヌ国際映画祭グランプリ作品。アルジェリア独立戦争の頃を舞台にしている。ミュージカル映画とは云っているが、いわゆるウエストサイド・ストーリーとは異なり、台詞が歌であるだけで、ダンスシーンなどは一切ない映画であった。音楽はミシェル・ルグランが担当し、現在ではスタンダードナンバーとして多くの楽団がカバーしている。カトリーヌ・ドヌーブの吹き替えは、ダニエル・リカーリが担当。
イヴ・サンローランは映画衣裳にクレジットされることは、殆ど無かったと云われているが、ドヌーブの映画だけは別だったと云う。1966年公開の「昼顔」は、夜は貞淑な若奥様で、昼は妖艶な娼婦を描いた作品だった。1968年に公開された「別離」は、金持ちのパトロンがいるのに、若い青年と一時の恋の情熱に走る女性を描いていた。共にドヌーブが主演した作品。この頃からドヌーブはサンローランにとって、特別な存在となり、コレクション・モデルを務めるなど、ミューズ的存在となっていった。現在、最も注目されているブランドの一つであるセリーヌ(既号114.B.C.B.Gの代名詞)は、ドヌーブの「昼顔」を念頭においたデザインを発表。担当デザイナーは「厳格な人妻で背面的な面も持つ、複雑で神秘的なイメージに惹かれた」と語る。コレクションで発表したピーコートは淑女風、フランスの高級レースで知られるカレー産の透けるストレッチレースは、妖しい色気を漂わせる。サンローランが好んだ肌の露出を抑えた黒衣の貴婦人スタイルも、ドヌーブを思い起こさせる。つばの広いキャプリーヌ帽にサングラス、短いマントなども、喪服姿が良く似合ったドヌーブをイメージさせる。ミュウミュウが発表した作品では、若き日のドヌーブを彷彿とさせるミニドレスが印象的である。フリルのついたオレンジや紫の60年代を思わせるAラインドレスは、シェルブールの雨傘を思い出させる。往年の銀幕クラッシックを想い出させるものは、プラダ(既号205.ブランドの迷走と再起)がブリジッド・バルドーを、フェラガモ(既号182.伝説の靴職人)がグレタ・ガルボを、マックス・マーラーがイングリッド・バーグマン(既号14.イメージ戦略)を、ルイ・ヴィトンも1956年公開の「素直な悪女」のバルドーをイメージした作品を発表している。
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