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桃太郎のビジネスコラム 272

☆ 伝説の映画衣裳デザイナー☆

2009.09.30号  

 ウォルター・プランケット(通称・プランキー)は、ハリウッド映画全盛時に数々の大作映画の衣裳を担当し、同じ時代を生きたイーディス・ヘッド(既号142.ハリウッドの裏方)と双璧をなす、ハリウッド屈指の衣裳デザイナーだった。
プランキーは1902年にカリフォルニア州・オークランドに生まれる。バークレイのUCLAで法律を学びながら、演劇グループに入っていた。卒業後はニューヨークに移ってブロードウェイの舞台などに出演した後、ハリウッドに移って映画の端役などに出演。
ダンサーのルース・セント・デニーズの、衣装デザインを手伝ったことから、衣裳デザイナーに転向。1926年にフィルム・ブッキング・オフィス(RKO社の前身)に就職する。
当時のスタジオでは、衣裳はレンタルが中心だったため、レンタル手配や予算管理が主な仕事だった。やがて、衣裳はレンタルよりも自前で制作した方が経済的だと判り、会社では衣裳制作部門を設立することになった。
プランキーは趣味で絵を描く程度のことはあったが、衣裳デザインの教育は受けた経験がなかったため、裁縫係として独学でデザインを学ぶ。1929年にスタジオがRKO社として再出発する際、衣裳部門のチーフ・デザイナーに任命される。この年に撮影された2色カラー映画「リオ・リタ」で、デザインしたトルコブルーとウォーターメロン・カラーを組み合わせた豪華衣裳は、主演のビープ・ダニエルズを満足させただけでなく、関係者からも高い評価を得るとともに、他のデザイナー達にも大きな影響を与えた。
1933年に制作されたキャサリン・ヘップバーン(既号75.ドイツの伯爵夫人)が、主演した「若草物語」では、男性的なキャサリンにはシンプルなドレスを提供。この映画では年代物の素材を再現して、キンガムチェックのエプロンや、ビクトリア王朝時代の花柄プリントをあしらったドレスをデザイン。このドレスは大きな反響を呼び、小売店で大量にコピーされたという。その翌年もフレッド・アステアとジンジャー・ロジャーズが共演した「空中レビュー時代」や、「コンチネンタル」などを担当してヒット作を連発。
プランキーは衣裳部門の運営や予算管理、人材管理など衣裳部門全体を取り仕切っていたが、プランキーの才能に対する会社の評価は低く、契約問題が拗れてRKOを去ることになる。1936年以降はフリーの衣裳デザイナーとして活躍することになり、1939年に制作された「カッスル夫妻」では、映画のモデルとなったアイリーン・カッスルと共同で衣裳をデザイン。主演したアステアの衣裳は、究極のダンディズムとして高い評価を得た。

 プランキーの才能を認めた独立系の映画製作者デビット・0・セルズニックは、超大作「風と共に去りぬ」の衣裳デザイナーに起用(配給はMGM)。プランキーは映画の舞台となるアトランタを頻繁に訪れ、原作者のマーガレット・ミッチェルと綿密な打合せを繰り返した。主役であるクラーク・ゲーブルの衣裳は、ゲーブルの専属テーラーのエディ・シュミットと共同で手掛け、ゲーブルの顔の大きさとスーツのバランスをとるため、肩にパットを入れたデザインにした。ヒロインのヴィヴィアン・リー(既号269.貴婦人達のクチュリエ)は撮影開始直後に起用が決まったため、衣裳は短期間に制作することが要求された。ツイッギーの模様をあしらった緑のリボンで、ウェストを絞った白のバーベキュードレスや、役のスカーレットが緑のカーテンを使って仕立てるカーテンドレスは、19世紀のクリノン・スタイルのドレスにデザインした。これは、馬毛と麻で造られたフープをスカートの中につけて、裾を大きく広げたドレスだった。この映画には5500着もの衣裳が用意され、とりわけバーベキュードレスは映画公開と同時に大反響を呼び、1930年代で最も多くコピーされたドレスとなった。後年、アメリカ映画芸術科学アカデミーは、このドレスを映画衣裳のデザインでは、史上最も優れたデザインと評した。
この映画では南北戦争で焼け落ちたタラの地を、復興させるために奔走するヒロインを描き世界的に大ヒット。アメリカに於ける世界の映画ランキングでも、常に最上位にランクされる名作である。マックス・スタイナーが作曲した「タラのテーマ」も、多くのフルオーケストラで演奏される名曲である。ヒロイン役ヴィヴィアン・リーの主演女優賞を始め、10部門のアカデミー賞を獲得。しかし、残念ながら衣裳デザイン賞が設立されたのは1948年だった。賞が設立されていれば、この映画は間違いなく受賞したと云われている。
日本ではこの名作を日本テレビが6億円を投じて放映権を得たという。ヒロインの最後の台詞にある「after all,tomorrow is anotherday = 結局、明日は明日の風が吹く」は、歴史に残る名翻訳とする声が多い。最近では原文に近い「明日という日がある」と翻訳されることが多いそうだ。第二次世界大戦中には、上海やマニラ、シンガポールで映画を観た軍関係者が「こんな凄い映画を作った国と、戦争をしても勝てるわけがない」と大きな衝撃を受けたとも云われる。ハリウッドでは無名の新人だったヴィヴィアン・リーは、このヒロイン役で一躍トップスタートとなった。1976年に初来日したオリビア・ニュートンジョンは、インタビューに答えて「私は美人なんかじゃないわ。私が思う美人ってヴィヴィアン・リーみたいな人よ」と言わしめた。

 1893年にトーマス・エジソンが、ニュージャージー州ウェストオレンジにある自分の研究所近くに、最初の映画スタジオを建設。続いてニューヨークやシカゴにも映画スタジオを建設した。しかし、アメリカ経済の中心であった東海岸は、天候状態が良くなかった。
当時はフィルム感度も悪く、照明ライトでは充分な露光を確保できないため、屋外の明るい場所でしか撮影ができなかった。1900年代になり映画スタジオ各社は、日照が長く地中海性気候で、夏には眩い太陽が輝くカリフォルニアに移転するようになった。
また、映画関連特許のほとんどを、エジソンとその関係者が所有しており、特許を廻る争いが頻発していた。エジソンらの映画製作関係者や映画関連機器製造業者ら、9社がそれぞれの特許を持ち寄って「モーション・ピクチャー・パテンツ・カンパニー」を設立。
このカンパニーに参加しない映画関連業者は、高額な特許料を請求されたため、カンパニーの目の届かない土地で、許諾無しで仕事を続けなければならなかった。なかでもロスアンゼルス一帯は、映画撮影には理想的な地理条件で、カンパニーの契約違反取締からも逃れやすく、違反追跡には国境を越えてメキシコに逃亡することも可能だった。
1903年、農村だったハリウッドは市制を施行するが、1910年にロスアンゼルスと合併。
ハリウッド地区に最初にできたスタジオは、1911年に開かれた「ネスター・スタジオ」だった。その年には独立系の15のスタジオをはじめ、多くの映画関係者が集まってきた。
1920年代のトーキー出現によって、スタジオ・システムは再編される。いわゆる5大スタジオ体制である。フォックス社(後の20世紀フォックス)、ロウズ社(後のMGM社)、パラマウント社、RKO社、ワーナー・ブラザーズ社の5社は、制作・宣伝・配給・興業まで自社で行っていた。これに対し、資金力も弱く自社の映画館を持たないユニバーサル映画社、コロンビア映画社、ユナイテッド・アーティス社はリトル・スリーと呼ばれた。
自社の映画館を持つ5大スタジオは、実質的に独立系の映画プロデューサーを、閉め出す形となり猛反発を受ける。この中にはデビット・0・セルズニック、サミュエル・ゴールドウィン、ウォルト・ディズニー、ウォルター・ウェンジャーなどがいた。
1948年にアメリカ政府は、独占禁止法違反でパラマウント社を訴えて勝訴。最高裁判所はパラマウント社に、映画館チェーンの売却を命じた。映画制作と興業の分離を命じた判決によって、スタジオ・システムとハリウッド黄金期は終焉を迎えた。

 プランキーは南北戦争当時の衣裳に、1930年代の流行を巧みに取り入れた新しいスタイルを生み出し、時代をリードするファッション・デザイナーとして大きな注目を集めた。
1945年にMGM社に招かれ、ラナ・ターナー(既号256.スキャンダル女優と香水)主演の「大地は怒る」、キャサリン主演の「愛の調べ」を担当。ジーン・ケリー主演のミュージカル「巴里のアメリカ人」では初のアカデミー衣裳デザイン賞を受賞。その後もミュージカル「雨に唄えば」、「略奪された7人の花嫁」やシネラマ大作「西部開拓史」、プランキー自身が最もお気に入りの衣裳となった「愛情の花咲く樹」などを担当。他にも「駅馬車」「ミニヴァー夫人」「アニーよ銃をとれ」など歴史に残る名画を数多く手掛けた。ウォルター・プランケットは1965年にMGM社との契約終了を機に引退。40年間に260本以上の映画で衣裳をデザインし、今では伝説として語られている名デザイナーである。


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