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1951年、クリスチャン・ラクロワはフランス南部プロバンス地方のアルルに生まれる。この南部地方のジプシーや闘牛士などの伝統文化は、ラクロワの装飾的スタイルに影響を与えることになる。風貌は丸顔で目と鼻が大きく、眉は濃いが髪は薄いのが特徴で、一見するとゴッド・ファザーに出演したマーロン・ブランド(既号223.若者達のジーンズ )を少し若くしたようなイメージである。モンペリエ大学を卒業し、1973年に美術館の学芸員になるためにパリに移り住み、ソルボンヌ大学、エコール・デュ・ルーブルも卒業。その後、恋人フランソワーズの影響でファッションの世界を目指すようになった。1978年にエルメス(既号220.御すのはお客様)に入社し、アクセサリーのデザインを手掛ける。1980年になってギ・ポランのアシスタントに就任。翌年、ジャン・パトゥのオートクチュールのチーフデザイナーに就任。ここでの活躍が認められて、1987年にCFDA(The council of designer of America)の最優秀外国人デザイナー賞を受ける。また、前年に発表したカクテルドレスのコレクションが認められ、オートクチュールの賞であるデ・ドール賞(金の指貫賞)を受賞する。そしてこの年「ファッションビジネスの法王」と云われるベルナール・アルノーに、才能を惚れ込まれて出資を受ける。念願であった自分の名を冠したブランド「クリスチャン・ラクロワ」を設立。アルノーはイヴ・サンローラン(既号176.C・ドヌーブをイメージ)以来となる、オートクチュールのメゾンをラクロワのために開設。アルノーにして「ラクロワのスケッチを見たとき、天才だと思った」と言わしめる。アルノーはクリスチャン・ディオールやLVMHグループ(既号203.熟成を待つ一億本)の、大部分の株式を所有し両社のCEOも兼務する実業家。1949年生まれだが世界の大富豪としても広く知られており、雑誌フォーブスの長者番付の常連で、2010年には第7位にランクインしている。
1987年に自身の名を冠したブランドでパリ・プレタポルテコレクションを発表。1990年には初めての香水「セラヴィ」を発表する。1994年に「バザール」、2年後には「ジーンズ・ド・クリスチャン・ラクロワ」をスタートさせる。2002年から2005年まで同じLVMH傘下であるエミリオ・プッチ(既号206.独自のテキスタイル)の、アーティステック・ディレクターを務めた。「ファッションは強いアイデンティティを表現するもの」を信念として、流行にとらわれることなく、毎回ゴージャスでパワフルなコレクションを発表していた。周りの変化に流されずマイペースを貫きたいファンには気の合うブランドだった。そして、いろいろな意味で「濃い」アイテムが多く、ヘビーなファンも多かったのも事実である。色彩は強いピンク、真っ赤なものが多く見られた。デザインは見るからにラグジュアリーで、スパンコールやビーズなどをふんだんに扱ったものを好んだ。いかにも派手でゴージャスと云った言葉が当てはまるデザインであった。因って、少し派手好きのファンに固定客が多かった。しかし、クリスチャン・ラクロワはブランドとして、必ずしも成功しているとは言い難い状況だった。見る者を魅了するファッションには、アルノーも惚れ込んではいたが、実業家の目からすると、投資に見合った業績を上げていなかった。アルノーは「ラクロワを通してディオール(既号63.ディオールのシルエット)やシャネル(既号261.アトリエ開設100年のブーム)のようなブランドを、一から築き上げていくのは難しく、偉大な才能だけではファッションブランドは成功しないのが判りました。ブランドには伝統が必要なのです」と語っている。2005年になってLVMHグループ(既号16.LVMHの5バリュー)はクリスチャン・ラクロワを、アメリカの免税店運営会社ファリックグループに売却した。
クリスチャン・ラクロワはフランスのファッション界で、一時期は最も勢いのあるブランドの一つだった。しかし、昨年5月にパリの商事裁判所に破産の申し立てをし、資産の保全を求めた。2008年9月、アメリカ大手証券会社のリーマン・ブラザーズが経営破綻し、これに端を発した世界的な経済不況は、ファッション業界も直撃。この世界的不況を受けて、高級品市場は急激に冷え込んでしまった。仏高級ブランドLVMHグループからファリックグループに売却されたクリスチャン・ラクロワは、野心的で資金の掛かる再建計画を推し進めた。それまでよりも更にハイエンドな品揃えを提供するブランドとして、経営戦略の位置づけを変更し、アメリカのラスベガスやニューヨークに新店舗をオープンさせた。しかし、こうした積極的な展開が裏目に出てしまった。6月になり民事再生法が適用され、12月になりファリックグループが提出した再建案をパリ商事裁判所が受理し、レディースオートクチュールとプレタポルテ事業から撤退。ライセンス事業のみで存続が決定。かつてのブランドイメージとは、かなり異なる方向へと戦略転換を迫られた。
クリスチャン・ラクロワはファリックグループが経営するようになって、「バザール」や「ジーンズ・ド・クリスチャン・ラクロワ」のラインを終了。2009年S/Sよりゴーラとコラボレートしたスニーカーでは男女各2型を発表。破産後の再建計画からはサシャ・ワルコフがディレクターに就任した。日本での展開は2001年に、渋谷区代官山で日本初の旗艦店をオープンさせる。「クリスチャン・ラクロワ六本木店」では、クチュールテイストを満喫できる空間として、贅沢なプレタポルテからアクセサリーまで、フルコレクションを取り扱うショップで、鮮烈な色づかいと上質な素材がラクロワの世界を存分に堪能できる。他にも「クリスチャン・ラクロワ銀座」「クリスチャン・ラクロワ サンローゼ赤坂」「クリスチャン・ラクロワ東京帝国ホテル店」「クリスチャン・ラクロワ リーガロイヤルB1」を展開。2007年に創業20周年を記念して東京で開催されたファッションショーでは、長年のファンを始めセレブリティー達が勢揃いした。この年にはカルピス伊藤忠ミネラルウォーターが、ラクロワ自身のデザインによる「エビアン」2008年限定モデルを発表。1992年の限定デザインボトル発表以来、ファッションデザイナーとのコラボレートは初めてであった。ラクロワはデザイナーとして服だけでなく、インテリアや制服などのデザインを手掛けていたが、その多才ぶりは世界中のギャラリーやホテルで見ることができた。帝国ホテルのユニフォームをデザインし、現在は旬のデザイナーとして活躍している芦田多恵(既号271.皇室のデザイナー )も、20歳の頃にはラクロワの下で修行を積んでいた。業界関係者や多くのファンが出来るだけ早い、ラクロワのカムバックを望んでいる。
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