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1935年(昭和10年)は、各方面で活躍する有名人が多く生まれた年である。皇室関係では常陸宮正仁親王、野球界では豊田泰光、仰木彬、野村克也、杉浦忠。演劇界では蜷川幸夫。音楽家の小沢征爾。作家では大江健三郎、寺山修司、経済企画庁長官も務めた堺屋太一。脚本家の倉本聰、久世光彦、ジェームス三木。漫画家の梶原一騎、赤塚不二夫。歌手の岸洋子、松尾和子、小坂一也、水原弘。女優では朝丘雪路、吉行和子、芦川いずみ。男優の美輪明宏、田宮二郎、八名信夫、岡田真澄。声優の小原乃梨子、ジャーナリストの筑紫哲也。政治家では小泉純一郎(既号167.60万人の「聖地」巡礼)、羽田孜。ほかにも多くの有名人が生まれた。この世代の人達が青春時代を謳歌するようになった1950年代後半から1960年代、日本は高度成長に沸き立っていた。海の向こうに目を向けると、米国のエルビス・プレスリー[ 1月生、(既号214.ホノルルを愛したエルビス) ]は、若い女性ファンを熱狂させていた。フランスでは不遇な時代から抜け出そうと、必死にもがいていたアラン・ドロン(11月生)がいた。アラン・ドロンは4歳で両親が離婚。母親に引き取られるが、再婚した義父とは反りが合わず、更に妹が生まれたため疎外された生活を送る。それに実父も再婚し息子が生まれたため、頼るべき親がいなくなってしまった。家庭不和による愛情不足で育ったため、度々問題を起こしては寄宿学校を転々とする。手に負えない問題児として感化院に送られ、一時的だが鉄格子の生活も経験した。14歳になって義父の肉屋で働いたが、アランは自分の居場所を求めてフランス外人部隊に志願する。未成年者は保護者の承諾が必要であったが、実母は義父の云うなりに承諾。アランにしてみると実母に見捨てられたも同然であった。17歳で入隊したアランは、実母の愛情のなさに憎悪が根深く残ることになり、後の女性遍歴においても、女性不信を拭うことはできなかった。入隊したアランはマルセイユより貨物船に乗せられ、カービン銃の扱いだけを教わって落下傘部隊へ配属される。そして第一次インドシナ戦争に従軍することになった。
1955年の休戦条約によって20歳で除隊し、米国やメキシコを放浪。翌年に帰国してパリのモンマルトルなどを転々する生活を送っていたが、1957年になって転機が訪れた。偶然知り合った女優のブリジッド・オーベールから「カンヌで映画祭が開催されるから、ブラブラしてみたら。あなたほどの美貌なら監督の誰かから声が掛かるかも知れないわよ。」言われたようにカンヌを歩いていたら、過去にロック・ハドソンらを発掘したハリウッドの一流エージェント、ヘンリー・ウィルスンにスカウトされる。3日後にはローマのチネチッタ撮影所で「武器よさらば」を撮影中のデヴィッド・セルズニック監督のテストを受けて合格。英語を習得することを条件に、7年間の契約を持ちかけられる。しかし、米国での成功に太鼓判を押されたアランは「私はフランス人なので、フランスで勝負したい」と契約を留保。その後、女優のエステラ・ブランの紹介でイヴ・アレグレ監督の「女が事件にからむ時」でデビュー。ジャン・ポール・ベルモントと共演することになった。1960年にアラン5作目の映画は、ルネ・クレマン監督の「太陽がいっぱい」で主役に抜擢される。この映画は、日本はもちろん世界的に大ブレイク。ニーノ・ロータのテーマ曲とともに、世界中に知られるようになる。その後は同じルネ・クレマン監督の「生きる歓び」「危険がいっぱい」「パリは燃えているか」、ルキノ・ヴィスコンティ監督の「若者のすべて」「山猫」(既号96.生き残るためには**)、ミケランジェロ・アントニオーニ監督の「太陽はひとりぼっち」、ルイ・マル監督の「世にも怪奇な物語」、それに三船敏郎と共演した「レッド・サン」、ブリジッド・バルドー共演の「素晴らしき恋人達」、チャールズ・ブロンソン(既号278.タフな男の化粧品)共演の「さらば友よ」、カトリーヌ・ドヌーブ共演の「リスボン特急」(既号176.C・ドヌーブをイメージ)のように、出演する映画のプロデュースまで手掛ける活躍であった。日本ではアランと同世代から、一回り年下の団塊の世代まで絶大な人気を誇り、欧米人における美男子の象徴のような存在となった。女性ファンだけでなく、立居振る舞いやサングラス、台詞廻しやタバコの吸い方などに憧れ、真似をする男性ファンが続出。前述した同じ年の日本の有名人達にもアランのファンは少なくない。多くのファンを持ったアランは、出演映画も再三テレビ放映(野沢那智の吹替えが有名=10月30日死去)された。コマーシャルではダーバン(既号81.フランス語のCM効果)やマツダにも出演。マツダのカペラにはアラン・ドロン仕様車があったほどだ。
アラン・ドロンはスタイルやファッションの格好良さだけでなく、育ちを彷彿とさせるような冷たくニヒルな表情。それと何処か日本人の任侠に通じる男の野心と男気が、たまらない魅力になっている。「サムライ」は1967年に制作された。題名は日本の武士道の「孤」に徹する精神に由来している。台詞は余り無く、殺し屋の冷徹なムードなど、アウトローの世界を描く映画は、後のヌーベルバーグに大きな影響を与えた代表的作品である。『ジェフ・コステロ(アラン・ドロン)は一匹狼の殺し屋で、アパートではインコと侘びしく暮らしていた。殺しの依頼を受けたジェフは、ソフト帽とトレンチコートのいでたちで、路上にとめてあるシトロエンを盗んで走り出し、郊外にあるアジトに着けた。アジトの男は何時ものように、馴れた手つきでナンバープレートを取り替え、拳銃をジェフに渡した。ジェフはコールガールをしている恋人のジャーヌ(ナタリー・ドロン)に、アリバイを頼んで仕事場となるクラブへ向かった。ジェフが請け負ったのは、クラブの経営者を殺すことで、仕事は寸分の狂いもなく完了。しかし、クラブを出るときに黒人歌手のバレリーに顔を見られてしまう。警察が動きだしクラブの客や、目撃者の証言でジェフも署に連行される。面通しが行われ、目撃者の大半はジェフが犯人と断定するが、何故かバレリーは否定するのだった。アリバイ作りは完璧だったが、ジェフが怪しいと睨んでいる警部は、ジェフに尾行をつける。ジェフは尾行をまいて、仕事の残金を受け取るために、殺しの仲介をした金髪の男と会うが、男はいきなり拳銃を抜いてジェフの左手を傷つける。残金を貰えぬどころか殺されかけたジェフは、殺しの依頼主を突き止めるべく、偽証をしてくれたバレリーを訪ねた。バレリーの口は堅く、2時間後に電話をするように告げたが、約束の時間に電話をしても繋がらなかった。やむなく帰ったジェフの部屋には金髪の男がいた。男は態度を豹変させ、残金を渡すとさらに新しい仕事を依頼する。ジェフは男の隙をみて飛びかかり、拳銃を突きつけて、依頼主の名前を聞き出した。大がかりな警察の尾行網を潜り抜け、聞き出したオリビエなる依頼主を訪ね、有無も言わさず射殺する。バレリーはオリビエの恋人で、オリビエはバレリーから自分の正体が発覚するのを恐れ、新しい仕事としてバレリー殺しをジェフに依頼したのだった。クラブでピアノを弾くバレリーの前にジェフが現れた。ジェフが拳銃に手を掛けた瞬間、尾行していた刑事達の銃声が響いた。死んだジェフを警部が調べると、拳銃には一発も弾は入っていなかった。』この映画では、妻であったナタリー・ドロンと共演。二人は1963年に結婚し、間もなく息子が生まれた(後にアントニー・ドロンの名でデビュー)。アランは我が身を振り返り、息子は普通の家庭の子供として育てたかった。ナタリーには家庭を守ることを希望したが、女優を続けたいナタリーと対立。やむなくサムライ完成後に離婚してしまった。
アラン・ドロンのような国際的大スターになると、名前そのものがブランドである。アランは自らの名を冠したブランド「アラン・ドロン」を立ち上げた。1986年11月には、アジア各国においてアラン・ドロンの商標権や意匠権、それにCMやイベント出演等のマネジメントをする「桂フランス アラン・ドロン インフォメーション・デスク」を設立。本社は大阪浪速区に置き、セギー・ジョルジュが社長に就任している。ファッション関係のライセンスは、コート関連をロンチェスター。ブルゾンやカジュアルジャケットを岐阜武。メンズ・ビジネスシャツをGFTエンタープライズ。ニットやカットソー、カジュアルシャツを村井商事。シューズをマドラス。ネクタイやマフラーを丸一商事。ベルトや財布を大平。アンダーウェアーをイソカイ。メンズスーツ&フォーマル、レディーススーツ&フォーマルをワキタ。それぞれアイテムごとにライセンスを供与している。ワキタではヤングアダルト向けに「アラン・ドロン・マルセイユ」、アダルト向けのパターンオーダー「アラン・ドロン・パリス」、ヤング向けの「アラン・ドロン・ルサムライ」を販売している。日本ではアラン・ドロンのブランドで有名なのが香水である。SPRジャパンではフランスのアラン・ドロンパルファムの日本総代理店として、「サムライ」「サムライウーマン」のブランディングで高級フレグランスを販売している。最近は映画界での活躍はめっきりと減ったが、アラン・ドロンのネームバリューは現在でも絶大である。
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