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時は明治の頃、大阪に輸入雑貨を取り扱う大崎組という会社があった。この会社ではフランスから輸入した香水を、「鶴香水」「金鶴香水」などと言った自社ブランドをつけて販売していた。1908年に岡山出身の西村新八郎がこの会社に入社。時代は大正になった1915年に西村は大崎組から独立。理由は定かではないが1923年に大崎組は倒産してしまう。昭和になって直ぐの1927年12月に、大阪市内で化粧品を扱う業者が合同して、金鶴香水株式会社を設立し、西村が社長に就任することになる。金鶴という社名の由来は、会社を設立してから売り出した整髪料の商品名である「丹頂ポマード」「丹頂香油」という「丹頂」の連想から付けられた。丹頂という商品名は、丹頂鶴が慶事の象徴であることと、丹頂鶴の頭部が赤いことから、人間の頭部に使う整髪料のイメージに合うとされ、丹頂をブランド名とすることに決定。さらに、丹頂鶴は鶴の王様であり、黄金の鶴を意味するとされることから「金鶴」を社名として命名された。
会社創業から6年目の1933年4月に、スティック状で使用する分だけ押し出して、髪に塗って頭髪を整える「丹頂チック」を発売した。ポマードに代わるスティック状にした画期的アイデアは、爆発的なヒットとなり、たちまち市場の70%を制する商品となった。この丹頂チックは、長年に亘って会社の経営を支えるロングセラー商品となり、第二次世界大戦後も「丹頂ヘアトニック」「丹頂コールドクリーム」など、丹頂ブランドの商品が増えたのに伴い、金鶴香水の社名はすっかり商品名の影に隠れてしまった。丹頂チック発売から26年目の1959年に、丹頂株式会社と社名を変更。男性が化粧品を使うという既存の概念がなかった時代に、男性用化粧品をメインにした経営戦略は、ブランドの認知度と共に会社の業績を押し上げていった。しかし、1963年になって資生堂(既号124.老舗企業の大改革)が売り出した男性用化粧品「MG5」は、女性用化粧品で培った販売ルートや、巧みな宣伝広告で丹頂のシェアを奪いだした。丹頂は一転してシェアを低下させ倒産の危機にまで追い込まれる。1970年になり丹頂は社運を賭けた巻き返しにでた。ハリウッドの個性派俳優チャールズ・ブロンソンをイメージキャラクターに起用した「マンダム」シリーズを発売。テレビ放映されたCM効果もあり、再び大ヒットを記録し、倒産の窮地から復活を遂げる。マンダム(MANDOM)とは、MANとDOMAINの合成語で、男の領域つまり「男の世界」として命名。そのイメージを表現するにはうってつけの男臭さを発散し、タフな男のイメージを持つブロンソンの起用は大成功であった。ブロンソンがCMで呟く「う〜ん、マンダム」の台詞は、化粧品に縁のない子供までが真似をし、流行語にまでなった。ジェリー・ウォレスが唄うCMソング「マンダム〜男の世界」も、シングル売上120万枚の大ヒットとなる。勢いを得た丹頂は翌年の4月に再び社名を変更し、株式会社マンダムとした。
チャールズ・ブロンソンは1921年11月に米・ペンシルベニア州で生まれた。本名はチャールズ・デニス・ブチンスキーと云い、リトアニア移民家庭で15人兄弟の5男であった。炭坑府の父はブロンソンが10歳の時に他界し、家庭は大変貧しかったという。そのため、兄達と共に炭坑に入り、石炭を1トン掘るごとに 1ドルを得て生活の糧にしていたという。あまりの貧しさに学校へは、妹の服を借りて通ったという説もある。第二次世界大戦にアメリカが参戦した後、1943年に陸軍航空隊に志願し、ボーイングB29の射撃手として東京大空襲にも参加した経歴持つ。大戦終了後の1946年に除隊し、美術学校へ入学する。ここで舞台の裏方やエキストラなどを経験して芝居に目覚めていく。1948年にニューヨークへ出て、レンガ職人やウェイターなどで生活をしながら本格的に演技を学ぶ。映画「赤い空」(1951年)でデビュー。デビュー当時は本名のブチンスキーを名乗っていたが、当時の共産主義圏であった東欧風の響きを持つ名前を避けて、「太鼓の響き」(1954年)からチャールズ・ブロンソンを芸名とした。当時はマーロン・ブランド(既号223.若者達のジーンズ )が「エデンの東」主演のオファーを蹴った事件があったように、東西冷戦を受けてハリウッドに赤狩り旋風が巻き起こったのが理由だった。「機関銃ケリー」(1958年)では主役に抜擢され、「荒野の七人」(1960年)や「大脱走」(1963年)等のヒット作に出演。共に男臭い風貌と巧みな演技が人気を呼び、俳優としての地位を確立する。その後、アラン・ドロン(既号228.紳士の帽子 )と共演した「さらば友よ」(1968年)や、ルネ・クレマン監督でフランシス・レイが音楽を担当した「雨の訪問者」(1963年)への出演で、押しも押されもしない国際映画スターの仲間入りをした。ブロンソンは独特の個性と演技力を活かして、アクション作品を中心に数多くの作品で主役や名脇役を演じて高い評価を得た。イメージに合わない作品の一つだが、エルビス・プレスリー(既号167.60万人の「聖地」巡礼)の青春コメディ映画「恋のKOパンチ」(1962年)にも出演。また日本を始め世界各国で、テレビCMにも出演している。マンダムのテレビCMは大林宣彦が演出。この一世を風靡したCMは撮影費2000万円、ブロンソンのギャラは3万ドル(当時の360円レートで1080万円)だったという。アリゾナ州の砂丘とハリウッドのスタジオで撮影された。このCMの大ヒットが、ソフィア・ローレン(既号198.憧れのジュエラー)のラッタッタ(ホンダ・ロードパル)など、日本企業が海外映画スターをCMに起用する先駆けとなった。ブロンソンは東京大空襲に参加した過去を持つが、CM撮影では大スターらしからぬ非常に人間的で、暖かい気配りが行き届き、泥水をかぶる場面なども積極的に演じ、日本人スタッフを感激させたという。私生活では3度の結婚をした。晩年はアルツハイマー病を発症。病との戦いの末、2003年8月に81歳で他界。当時のテレビCMとCMソングの爆発的ヒットで、業績を急回復させて倒産の危機を免れたマンダムは、ブロンソンの葬儀に献花を惜しむ筈はなかった。
マンダム・シリーズは発売時のインパクトが、あまりにも強烈だったためか、当時の熱烈なファンが未だに使い続ける熟年層向けのブランドとなってしまった。しかし、1978年に最先端のオシャレを若者向けに提案する「ギャッビー」シリーズを発表。1999年には男性化粧品としては業界初の100億円突破のブランドとなり、現在に至るまで主力商品であるとともに、世界最大の男性化粧品ブランドに育った。ギャッビーは3度目の大ヒット商品となるが、今度は社名変更には至らず、マンダムという社名に新しい意味が付与される事になった。huMANとfreeDOMの合成語でMANDOMとし「人間の自由」と定義された。1984年に女性マス市場向けの第一弾として、ティーンズ向けの「ピュセル・マイリップ」を発売。1989年になると30代男性をターゲットに、爽やかな男のたしなみをアピールする、無香料の整髪料「ルシード」シリーズを発売。1993年には男性用ブランドから派生して女性用専門となった無香料整髪料「ルシード−L」シリーズを発表。2001年には「ギャッピー・ヘアカラー」でヘアカラーに参入し、男性用ヘアカラー市場を創造。2年後にも「ルシード−L・プリズムマジック・ヘアカラー」シリーズを発売し、女性用ヘアカラー市場へ参入。また、ルシードブランドからは男性用白髪染め市場にも参入した。2007年には女性白髪ヘアカラー「プロデュース」を発表。そしてこの年に、創立80周年を迎える。さらに特筆すべきは、1933年発売の丹頂チックが、現在も売れ続けていることである。マンダムのイメージ戦略に欠かせないのが、その時期に旬のイメージキャラクターを起用することだった。丹頂チックの時には俳優の三船敏郎を起用したことがあった。1972年のマンダム・フーズフーを発売したときには、80日間世界一周でシャーリー・マクレーン(既号261.アトリエ開設100年のブーム)と共演したデヴィッド・ニーヴンを起用。その後のマンダム・シリーズ後のCMキャラクターは、ギャッビーで萩原健一、松田優作、a−ha、吉田栄作&森脇健児、本木雅弘、木村拓哉、木村拓哉&岩尾望。ルシードは稲垣吾郎&常盤貴子、RIKIYA、中村獅童、矢沢永吉。ルシード−Lで常盤貴子、安室奈美恵、押切もえ、木村カエラ。プロデュースでは郷ひろみ、冨田リカを起用するなど、常に旬のタレントを起用している。
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