ブランドに学ぶ 儲けを生みだすビジネス・コラム

桃太郎のビジネスコラム 259

☆ 映画と服飾ブランド☆

2009.07.01号  

 映画は総合芸術であり、他の芸術とは切っても切り離せない関係にある。絵画も、音楽も、そして服飾もそうである。映画における服飾は、あくまでも映画が主体で、脚本や登場人物の性格や個性、照明との関係など、俳優が演じる役作りをイメージしながら、作り上げていかなければ成らない。オートクチュール・デザインは、デザイナー自身の頭の中にあるイメージや、美学を表現するモノなので、洋服を創るということに関しては、映画衣裳とは作り込み方が全く違うのである。映画はストーリーや技術の面白さだけでなく、その時代背景を衣裳から感じさせる事ができる。その衣裳がひとたびスクリーンに映し出されると、多くの観客の目に映り、その感性が流行を創り、やがてブランド化されて行くものもある。一方では、すでにブランド化されているデザイナーを、映画衣裳に取り込むことにより、そのブランドが更に広がりを見せることも多々ある。数多くいる映画衣裳デザイナーの中には、その衣裳がどんなに脚光を浴びようが、あくまでスタジオの衣裳係から抜け出ることはなく、黙々と活動を続けたデザイナーもいる。
ジーン・マロー、マレーネ・デートリッヒ、ベティ・デービス、グレース・ケリー、イングリッド・バーグマン、オードリー・ヘップバーンなど、錚々たる名女優達の、衣裳をデザインしたイーディス・ヘッド(既号142.ハリウッドの裏方)である。彼女は約1000本の映画に関わり、アカデミー賞のノミネート回数は34回、8度の受賞に輝いたが、「あくまでも自分の個性は出さずに、女優の美しさを引き出したい」として映画衣裳に専念。商業デザインには、個人的な関係で僅か引き受けた以外は、いっさい手を出さなかった。

 映画会社の専属デザイナーの筆頭は、パラマウント映画の衣裳チーフデザイナーとなったイーディス・ヘッドであろう。それまでのチーフデザイナーは、すべて男性であった。彼女が手にしたオスカーは、次の8作品である。「女相続人」「イヴのすべて」「サムソンとデリラ」「陽の当たる場所」「ローマの休日」「麗しのサブリナ」「よろめき珍道中」「スティング」。ほかにも「シェーン」「サンセット大通り」「レディ・イヴ」などの代表作がある。アルフレッド・ヒッチコック監督のご指名で、「ダイヤルMを廻せ!」「裏窓」「泥棒成金」など、多くのヒッチコック作品も手掛けた。
アイリーン・シャラフも5度のアカデミー衣裳賞を受賞している。「巴里のアメリカ人」「王様と私」「ウエスト・サイド物語」「クレオパトラ」「バージニア・ウルフなんかこわくない」。ウエスト・サイド物語は、映画衣裳の分岐点となる映画だった。若者達にジーンズにスニーカーを穿かせて受賞したのだ。50年代にはジェームズ・ディーンやポール・ニューマン、マーロン・ブランド(既号223.若者達のジーンズ )等がTシャツにジーンズ姿で登場し、若者達に大受けしたが、アカデミー賞の対象になるような衣裳という範疇ではなかった。それまでは豪奢なコスチュームしか賞の対象にならず、想像もできない変化であった。セシル・ビートンが一躍注目を集めたのが「マイ・フェア・レディ」で、ヘップバーンが大変身した後の衣裳デザイン。他にも「恋の手ほどき」「アンナ・カレリナ」などがある。オー・ケリーはワーナーブラザーズの、衣裳デザイナーとしてスタート。「カサブランカ」でイングリッド・バーグマンが登場したときの、まばゆいばかりのイメージが印象的。その後はビリー・ワイルダー監督の「お熱いのがお好き」「あなただけ今晩は」などを担当。ヘレン・ローズはMGMで衣裳デザイナーを努め、エリザベス・テイラーの「花嫁の父」「熱いトタン屋根の猫」でアカデミー衣裳賞を受賞。人気絶頂で引退したグレース・ケリーのウェディングドレスは、彼女のデザインによるもの。当時はスターが結婚するときには、映画スタジオの衣裳デザイナーが、ウェディングドレスのデザインをする場合が多かった。なかでもモナコのレーニエ大公と結婚したグレース・ケリーは大きな話題となった。ミレーネ・カノネロも最近話題の一人。「炎のランナー」でアカデミー衣裳賞。ノミネートも多く、「時計仕掛けのオレンジ」「バリー・リンドン」「ダメージ」など。一昨年に公開された話題作「マリー・アントワネット」も手掛けた現役デザイナーである。因みに、日本人のアカデミー衣裳賞の受賞者は、1953年の「地獄門」和田三造、1985年の「乱」ワダミエ、1992年の「ドラキュラ」石岡瑛子がいる。

 ハリウッド映画の黎明期に「この人がいなかったらハリウッド映画は、これほどまでに華やかには成らなかっただろう」と云われる人物がいる。マックスファクター一世である。ハリウッド女優達が美しいのも、彼の天才的才能と、裏方に徹した仕事からだった。自分で発明したファンデーションを使って、独自のメイクアップを施し、数えきれないほどの役者達を、スターの顔へと生まれ変わらせた。彼のお蔭で女優達は、画面一杯にクローズアップさせる撮影にも耐えられるようになった。
1909年、ロシアのロイヤルバレエ団の、ビューティー・アドバイザーであったマックスファクター一世が、ハリウッドに化粧品や演劇用品を扱う店「マックスファクター」をオープンさせた。そして、ハリウッド映画の公式ビューティー・アドバイザーとして活躍。生み出した数々のメイクアップ製品は、多くの映画スターに愛され、世界の一流ブランドとしての地位を築いていった。現在では当たり前のように使われているマスカラやリップブラシなど、なじみ深い多くの化粧品を生み出した。現在では「化粧する」という意味で、使われるようになった「メークアップ」という言葉は、現状に満足できない彼が「MAKE UP(もっと、美しい表情を)」と、言い続けた言葉からきたものだ。
現在のマックスファクターは、化粧品ブランドとして、その名が確立。世界最大の一般消費財メーカー、プロクター・アンド・ギャンブルの傘下。日本法人は2006年の会社法改正により、P&Gマックスファクター合同会社となり、本社を神戸市・東灘区に置く。

 商業デザインのデザイナー達も、数多く映画界に進出した。ココ・シャネル(既号136.試作品番号No5)は服飾界の新技術を、数多く確立させた20世紀モードの先駆者で、今世紀最高のファッション・デザイナーであろう。没後40年近くに成ろうとしている現在も、若いデザイナー達から、崇拝されるカリスマ的存在である。ハリウッド・スター達にもシャネル・ファンが多い。映画ではフランスの巨匠ジャン・ルノワールとの親交が深く、彼の最高傑作「ゲームの規則」で衣裳デザインを担当した。クリスチャン・ディオール(既号63.ディオールのシルエット)はパリ・モードを、世界に広めた最大の功労者である。ディオールも映画衣裳には、強い関心を持っていた。「舞台恐怖症」のマレーネ・デートリッヒが、初めてディオールを映画衣裳に用いたと云われている。「終着駅」のジェニファー・ジョーンズの衣裳なども担当したことがある。ユーヴェルド・ジバンシー(既号116.スクリーンの妖精と衣裳)と云えばオードリー・ヘップバーン、オードリーと云えばジバンシーと云われるくらい、ジバンシーはオードリーの存在そのものを、モードにしたと言っても過言ではないだろう。「麗しのサブリナ」のドレスは、監督のビリー・ワイルダーがオードリーをパリに行かせ、自分自身で選ばせた。しかし、印象的なドレスを提供したジパンシーは、映画のタイトル・クレジットに名前を連ねていない。それは、他の場面で使われている多くの衣裳を担当し、それまでのオードリーの舞台や映画衣裳を担当していたイーディス・ヘッドが、若僧のシバンシーと一緒にクレジットされることを拒否したからだと言われている。その結果、イーディスだけがアカデミー賞衣裳デザイン部門の栄誉を受けることになった。オードリーが再婚したアンドレアとの、結婚の際に着たドレスも、ジバンシーの手によるものであった。ピエール・カルダン(既号187.ブランドの大衆化)はビートルズの、襟無しジャケットで有名である。カルダンはあらゆる意味で創作的だった。映画ではジャン・コクトーの「美女と野獣」や、ジャンヌ・モローの「黒衣の花嫁」などを手掛けた。ジャンニ・ベルサーチ(既号134.連続殺人魔とベルサーチ)は「ジャッジ・ドレッド」の衣裳を手がけ、ベルサーチらしいプリントを紹介している。ジョルジオ・アルマーニ(既号131.モードの帝王)は、ハリウッドのダンディ・スター達からの人気は別格だ。「アメリカン・ジゴロ」のリチャード・ギア。「アンタッチャブル」のケビン・コスナーなど、ラフで気品があり、セクシーさも持ち合わせていた。
現在では、スタジオ・デザイナーと商業デザイナーの区分けは曖昧だが、間違いなく云えることは、時代背景にマッチした服飾デザインが、ブランド化されていることだ。


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